ハイデッガーの言葉観

 

私たちは次のやうに考へるかも知れません、すなはち、ヘーベルの詩は、
方言詩であるが故に、
ただ或る限られた狹い世界のことを言つてゐるに過ぎないと。
さらにその上ひとは次のやうに考へます、
すなはち、
方言は標準語や文語に加へられた虐使であり、毀損であると。
しかし、
このやうに考へることは見當違ひであります。
國言葉こそ、
如何なる言葉の場合においても、すべての生え拔きの言葉の靈妙なる源泉であります。
言葉の靈がそれ自身の内に祕匿してゐるすべてのもの、
それはこの泉から私たちの方へと流れ寄せて來るのであります。
(マルティン・ハイデッガー[著]高坂正顯・辻村公一[共譯]
『野の道・ヘーベル―家の友』理想社、1960年、p.28)

 

翻訳された日本語が、ゆっくり静かに、読んでいるこちらに沁みてくるようです。
この本は、
小野寺功先生の『新版 大地の哲学 三位一体の於てある場所
にでており、
先生の思想の遍歴を辿るには欠かせない
と思われたので、
古書で求めて読みました。
「野の道」は、
田舎で生まれ育ったわたしには、我がことのようです。
『存在と時間』のハイデッガーは、
こんな感性の人であったかと、
大げさかもしれませんが、
わたしのなかのハイデッガー像が変りました。
上で引用した文章は、
「野の道」のあとにつづく、
ヨハン・ペーター・ヘーベルに関するものですが、
これを読むまで、
この詩人のことを知りませんでした。
そして、
この詩人について、
ハイデッガーは惜しみない賛辞を送っています。
とくに方言に関する観方は、
我が意を得たりの感が強く、
この詩人のものも読みたくなりました。

 

・野も山も涙ながらに冬紅葉  野衾