「お願いします」
「どちらまで」
「JRの保土ヶ谷駅まで。一号線沿いですから、東口ですね」
「分かりました」
タクシーは静かに発進し、西平沼橋の交差点に向かう。
ドラッグストアでヨーグルトを買って帰ろう。
「運転手さん、凄いですねこの車。豪勢というかなんというか。とくにこのシート。
飛行機のファーストクラスみたいじゃないですか。乗ったことないですけど…」
「ありがとうございます。会社の車なんですが、まだ一台しかありません」
乗り心地抜群なのには、
ほかにも理由があった。
「運転手さん、これ、FMですか?」
「いえ。カセットテープです」
「そうですか。ジャンルだと、ボサノバ、ですかね?」
「あ、はい。お客さん、詳しいですね」
「この車の雰囲気で、思い出したことがあるものですから」
「??」
「もう三十年も前、いや、三十年は経っていないか。前に会社勤めをしていたころ、
夜中、赤羽からタクシーに乗ったことがありまして。
ビル・エヴァンスのピアノ曲が流れていました。
そのときのことを思い出しました」
「ビル・エヴァンスですか。いいですね」
「はい。いまもそうですが、当時も好きでしたから、運転手さんといろいろ話しました。
酒も入っていましたし」
「そうですか」
「きょうは酒は飲んでいませんけど、気分がよくなり、つい昔のことを」
「いや、どうぞどうぞ。興味があります」
「わたしは出身が秋田なんですが、
たまたま、
そのときの運転手も秋田出身の方で、
若いときに音楽の仕事をしたくて東京に出て来たけれど、なかなかうまくいかなくて、
ということでした」
「そうですか。わたしと同じです。出身地は違いますけど」
「あのときの運転手さんは、ピアノ曲が好きで、ジャズならビル・エヴァンス、
クラシックならディヌ・リパッティと」
「……………。母によく言われましたよ。芸は身を助く、って。
芸で食べることはとても叶いませんでしたけれど、音楽を知ってて、よかったと思います」
それからも、音楽の話で、ひとしきり盛り上がった。
タクシーは、浜松町の交差点を過ぎた。
「好きな音楽をかけていると、気分が変る気がします。
赤羽にある出版社に勤めていたころ、
保土ヶ谷から赤羽までだと、当時、一時間ちょっとかかりましたけど、
たとえば、トム・ウェイツを聴いていれば、退屈することはありませんでした。
移動の時間が色づくみたいで」
「分かります。分かります。
……………。
お客さん、横断歩道を過ぎて、タクシー乗り場に曲がったところでいいですか?」
「あ。はい。そこで降ろしてください」
メーターは1400円を表示していた。
「1400円になります」
「はい。スイカでお願いします」
と、
停めようとしたところに和服の女性が立っていて、少し先まで車が進んだ。
メーターの数字が1500に変った。
運転手が、申し訳なさそうに、
「100円お返しします」
と言った。
「いや、いいですよ。運転手さんのせいじゃありませんよ」
わたしがスイカで清算したあとで、
それでも運転手は、
わたしに100円を返してくれた。
「ありがとうございます。話ができて楽しかったです」
「わたしのほうこそ。楽しかったです。また、機会がありましたら、ご利用ください」
ドアが開き、わたしが降りると、
さっきの女性が、
「よろしいですか?」と言いながら、
すれ違いざまに乗り込む風情。
わたしは身をかわし、タクシーから離れて、横断歩道に向かった。
信号が青に変り、歩き始めて、ふと後ろを振り返ると、
さきほどのタクシーがいて、
運転手がわたしに手を振っていた。
体を斜めにしながら、お辞儀をし、それから急ぎ横断歩道を渡った。
・さびしさは世界の図なり秋の風 野衾