超絶技巧の編集が光る「百人一首」

 

これまでの「百人一首」の評釈や鑑賞の方法が一首ずつの評釈や鑑賞ではあっても、
「百人一首」のそれになっていないのは、
共通の詞句によって結ばれている歌を連鎖したかたちで捉える
ことに気づいていないからである。
「百人一首」の中に、
一首単独では鑑賞に耐えない歌が混っているのは、
その歌がおそらく他の歌との関連によって別の意味や価値を持つからであろう。
「百人一首」はこれまで
あまりにも一首ずつの内容や意味を中心に考えられすぎてきた。
それは和歌の観賞ではあっても、
「百人一首」の見方としてはまちがっている。
定家が百首歌として、
しかも本歌取の技法を準用して選歌した「百人一首」の正しい見方は、
百首全体をもちいられた言葉において捉えるということである。
契沖以来の古ぼけた顕微鏡を捨て、
「百人一首」という詞藻の森を上空から鳥瞰ちょうかんすれば、
思いがけない視野や景観がひらけそうな予感がする。
(織田正吉『絢爛たる暗号 百人一首の謎をとく』集英社、1978年、p.60)

 

伊藤博さんの『萬葉集釋注』で、目にある鱗が落ちた気がしましたが、
なにがいちばん衝撃だったかといえば、
歌集というのは、
一首ずつの観賞もさることながら、
なぜその歌を、
どういう理由から選び、
どういう意図に基づいて並べたかを見ることによって、
一首ごと丹念に見ていくのとは別の視野が開けてくるということでした。
万葉集の場合は、
大友家持の編集の技が利いているわけですが、
古今集の場合は、
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の、
とくに紀貫之の発想によって集全体が色付けされているようです。
たとえていえば、
これまで、
名所旧跡を歩きながら愛でてきたのを、
ドローン撮影によって俯瞰して見てみる。
そうすると、
歩きながら眺めていては、おそらく絶対に気づかないような発見に、
アッ!という驚きとともに遭遇する、
そういうことかと思います。
言葉は、
もちろん物、事をつかむという本来的意義がありますが、
それだけではない、
遊びの領域が必ずあって、
歌集の編集者は、
それを人知れずやっているようです。
言葉はまた、
孤独をいやす最高の遊び道具、
ということでしょうか。
その最たるものが「百人一首」の藤原定家である、
そのことをこれでもかと示してくれたのが、
織田正吉さんの上記の本。
田辺聖子さんが絶賛したのも宜なるかな。

 

・丘の辺の木々の葉裏の清々し  野衾