藤原定家、14回!

 

四〇六 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも    安倍仲麿
四〇七 わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人にはつげよあまの釣舟  小野 篁
(数字は「国歌大観」歌番号)

「天の原」「わたの原」という類似の語句を持つと同時に、
仲麿と篁がともに遣唐使に関係のある人物であり、
本土を離れた土地から海上をへだてて都に思いを残して詠んだという共通性によって、
「古今集」にはこの二首が並べられているのである。
定家は、
生涯に少なくとも十四度は「古今集」を書写していることがわかっているから、
この二首の関連性はよく知っており、
その上で「百人一首」に採ったものと考えらえる。
こうして見ると、
「百人一首」には菅原道真、崇徳院をはじめとして、
流人とその関係者、
そして流人に準ずる境遇の人物の歌が多く採られていることにあらためて驚かされる。
極端ないい方をすれば、
「百人一首」は恋歌の多いみやびな詞華集であるが、
同時に流人の歌集という一面を持っている。
「百人一首」の中の、多勢の流人とその関係者の像は何を意味しているのだろうか。
それらの像をあつめ、
定家というレンズを通して焦点を一点にしぼると、
そこに一人の人物が浮かびあがってくる。
いうまでもなく、それは後鳥羽院である。
(織田正吉『絢爛たる暗号 百人一首の謎をとく』集英社、1978年、p.132)

 

個人的に、子どもの頃「百人一首」で遊んだことはなく、
わたしが実際に遊んだのは、
仲良くしている近所の姉妹が小さい時(いまは二人とも大学生)に、
「百人一首」を拙宅に持ってきてくれたときぐらいです。
いま思えば、
姉妹の無心に遊ぶ姿をふくめ、
日本の古典に気持ちが大きく傾いていく一つのきっかけでした。
「百人一首」が名歌をただ並べたものでないことは、
田辺聖子さんの『田辺聖子の小倉百人一首』
を読んだとき以来、
たびたび感じてきましたが、
織田正吉さんのこの本を読んでそれが決定的になりました。
歌一首一首の作者は別々であっても、
「百人一首」は、
藤原定家が編むことによって新たな意味をもちえた一つのまとまった作品集である
と気づかされます。
「古今集」を十四度も書写していればこその、
超絶的離れ業と言えるでしょう。

 

・夢うつつ閑の音きく午睡かな  野衾