いい眠り

 

『中井久夫との対話 生命、こころ、世界』のなかにでていたことですが、
付箋を貼らなかったので、
どこだったかわからなくなってしまいました。
そこにたしか
こんなことが書いてあったと思います。
「いい眠り」というのは、
たとえていえば、
おもちゃで思いっきり遊んで、片付けずにいると、
知らぬ間にコロポックルだか妖精だか、
そういうものたちが現れて、
気がついたら、
あ~らら、
きれいに片付けられていた、
そんな感じであると。
正確ではありませんが、そんな喩えが書かれてあり、
わたしはじぶんの体験と重ね、
なるほどと納得しました。
時時刻刻いままさに、の、ここにおける「現在」は捉えどころなく進行し、
立ち止まろうとしても立ち止まれず、
たとえ静かに座っていても、
ひどく慌ただしく、にぎやか。
しかし、
ぐっすりゆっくり「いい眠り」につけば、
目が覚めたあと、
前日の慌ただしさが薄まり整理されていることに気づく。
すっきりとしたいい朝は
「いい眠り」のおかげのようです。

 

・鎌倉の草のとざしの雛かな  野衾

 

ウンベラータの挿し木

 

けさのこの日記を入力するためにネットで検索したら、
ウンベラータの挿し木のやり方について、
写真付きのていねいな説明がされているサイトがありました。
なるほどなるほど。
そうだったのかとふかく納得。
というのは、
半年くらい前、いやもう少し経つかな、
会社にあるウンベラータがぐんぐん成長し、成長し、とうとう天井に達しました。
まさか天井を突き破ることはないだろう
とは思いましたが、
どうも気になる。
背の高い少年が、
アタマの閊える部屋に閉じ込められている図が想像された。
そんなわけで、
家にある剪定鋏を持っていき、
伸びたところをバッサリ、
80センチほどでしょうか、
切りました。
そのまま捨てるにはもったいない気がしましたので、
てきとうに葉を落とし、
親株のある鉢の、
親株のある横10センチほどの土に、
グッと挿しておいた。
それがなんと、
このごろ芽を吹きだした。
いやもう嬉しいのなんの。
下の写真がそれです。
ところで。
写真付きのていねいな説明がされているサイトによれば、
ウンベラータの挿し木は、
親株の鉢とは別に新しい鉢を用意し、
5月から8月に行うのがよく、
それ以外はしない方がよいと書いてありました。
え。
そうなの!?
わたしが行なったのは、
9月、いや10月、だったかもしれず、
間違えたかもしれません。
ではありますが、
いまさらどうにもなりませんし、
芽が吹いてきたのだから、結果オーライということにします。

 

・光よりなほ村里は水の春  野衾

 

サリヴァンとフィッツジェラルド

 

さらに、ジャズ・エイジの寵児だったフィッツジェラルド夫妻
つまり作家のF・スコットとその妻ゼルダというモデルの破壊的な衝撃力がある。
一九二七年ごろのフィッツジェラルド夫妻は
デラウェア州ウィルミントン近郊に住んでいた。
フィッツジェラルドは大酒を飲み、作品を書くことがきわめてむつかしくなっていた。
多分この年だろう。
フィッツジェラルドはサリヴァンに逢っている。
もっともどういう形で逢ったか、正確なことは分らない。
(ヘレン・スウィック・ペリー[著]中井久夫・今川正樹[共訳]『サリヴァンの生涯 1』
みすず書房、1985年、p.310)

 

伝記を読んでおもしろいのは、こういう記述にときどき遭遇することだ。
サリヴァンとジャズ・エイジの寵児・フィッツジェラルドは
逢って何を話したろう。
自身の酒癖のことか、
はたまた妻ゼルダの精神状態のことか。
サリヴァンの養子となり当時同居していたジェームズ・インスコー・サリヴァンは、
F・スコット・フィッツジェラルドに会ったことがあると、
著者のペリー女史に話したそうだ。
ペリー女史は、
ジェームズがサリヴァンに紹介されてフィッツジェラルドに会ったのだろう
と推測している。
なお、
ペリー女史はまた、注でつぎのように記している。
「ジェームズ・サリヴァンは、
サリヴァンの患者の情報を洩らさないように特に気をつけていた人で、
間接的にそれとなくほのめかすことが時々あっただけである。」
この注の記述から、
著者のこころ配りが感じられ、
情報の信憑性がいっそう高くなる気がする。

 

・白雲と連れ立ちてゆく春の水  野衾

 

サリヴァンとアウグスティヌス

 

サリヴァンの愛、親密性、性欲についての理論は、
一般にカトリック教会で教えられることに深い関係がある。
もっと焦点を絞れば聖アウグスティヌスの教えについての直接間接の知識である。
アイルランド・カトリック教会は
聖アウグスティヌスの教えに忠実に従っているのである。
アウグスティヌスは愛と性欲とを全く別個の感情だと考えた。
完全な愛は、まず神に向い、
それから反射して人間関係の愛となる。
性欲は単に子を生む手段である。
なるほどサリヴァンの愛の定義はもっぱら人間関係に関するものであるが、
アウグスティヌスの教えの影響がある。
「相手の満足と安全とが
自分にとって自分自身の満足や安全と同じ重要性を持つようになった時、
愛という状態が存在する。
愛ということばが世間でどのように使われているかは知らないが、
私の知る限り
この定義に合わない場合においては
愛という状態の存在することはない。」
いろいろの点で禁欲的な愛の定義である。
フロイトが『精神医学辞典』において行なった愛の定義とは
正反対である。
(ヘレン・スウィック・ペリー[著]中井久夫・今川正樹[共訳]『サリヴァンの生涯 1』
みすず書房、1985年、p.139)

 

サリヴァンの生涯にアウグスティヌスがふかく関係している
とは知りませんでした。
サリヴァンは、
アイルランド系移民の子として1892年、
アメリカ合衆国のニューヨーク州で生まれています。
「相手の満足と安全とが
自分にとって自分自身の満足や安全と同じ重要性を持つようにな」る
というところに、
サリヴァンの思想・人間関係論の本質があると思います。
愛が「状態」であるというのもおもしろい。
引用箇所にあるサリヴァンの愛の定義は、
彼が生前刊行した唯一の書籍『現代精神医学の概念』にでてきます。

 

・春服を友と連れだつ里の道  野衾

 

『サリヴァンの生涯』

 

サリヴァンは遺伝対環境という思弁を一度もしていない。
子供の知能を別の文化複合に属する有利な人々が工夫した仕掛けで測定する
などということは、
サリヴァンには無意味に思えたのである。
貧困とか子どもを縛る慣習とか学校で学ぶ機会が限られている現状とか、
たまたまそこに生れたという地理的偶然の結果とか、
その子を取り巻く紋切り型の言動とか、
そういうものから子供が解放されてから遺伝という変数を検討しても遅くない。
これはサリヴァンが自分自身の生活から理解したことであり、
広い社会に出てから孤独な人たちの観察によっても理解したことだった。
(ヘレン・スウィック・ペリー[著]中井久夫・今川正樹[共訳]『サリヴァンの生涯 1』
みすず書房、1985年、p.105)

 

共訳者のひとりである中井久夫さんの「訳者まえがき」
によれば、
原著は
『アメリカの精神科医――ハリー・スタック・サリヴァンの生涯』
というタイトルであったとのこと。
翻訳書のタイトルを『サリヴァンの生涯』に変更する
許可を求めたのに対して、
ペリー女史は、
「原題よりよい題だ、
サリヴァンの思想は精神医学にとどまるものではないから」
と、
予想外の返答があったことについて
『サリヴァンの生涯 2』の「訳者あとがき」
で触れています。
読んでおもしろく感じる学術書は、
専門領域を超えて伝わってくるものがあり、
ハリー・スタック・サリヴァンの論考は、その最たるものと思うけれど、
そう感じられることの
一つの理由が解き明かされた気がします。
また「訳者まえがき」には、
「本書は、サリヴァンを知る人の伝記としてジョーンズの
『フロイトの人と業績』に相当する位置を持つと思う」
とあり、
訳者の並々ならぬ意気込みを感じます。

 

・恥ずかしく眩しくもあり春の服  野衾

 

「喜」「怒」「哀」の先の「楽」

 

筆者の一人(真保呂)がよく覚えているのは、
八〇年代末、中井さんが『カヴァフィス全詩集』の翻訳で読売文学賞を受賞した時期に、
その当時に自宅にいた祖母が痴呆症状を示したこともあって、
診察がてら遊びにきたときのことである。
そのとき、祖母の状態を尋ねた筆者にたいして、
中井さんはこのような話をしてくれた。
以下、会話調で再現する。

 

中井 人間はね、赤ん坊から「喜怒哀楽」の順番に感情を覚えていくんだけれど、
年をとったり精神を病んだりすると、
「喜怒哀楽」の「楽」から順番に感情を失っていくものなんだ。
筆者 なるほど、でも「喜」と「楽」ってどう違うんですか?
同じような感情に思えるけど。
中井 満足すると「喜」。満足できないと「怒」。それが続くと「哀」。
でも「楽」っていうのは、その三つの感情を超えた感情だね。
筆者 どういうことでしょう?
中井 わかりやすくいうと、ゲームに勝つと喜び、負けると怒る。
そして負けつづけると哀しい。
しかし、それでも「もう一度」ってゲームを続けようと思うのが、楽しむってことだな。
つまり、「喜怒哀」の全部を受け入れて、
その先にあるのが「楽」というわけさ。

 

このときの会話を筆者はしばらくのあいだ、ほとんど忘れていた。
大学院時代にフロイトの著作を読んだときに、断片的に思い出した程度だった。
しかし、専門学校や大学で授業をするようになり、
精神的な問題を抱えた学生たちの対処をしているとき、ふと記憶が鮮やかによみがえり、
いつしか自分もそうした学生にたいして、
中井さんの話したのとそっくり同じ内容を伝えるようになった。
そして、この会話の中井さんの言葉が、
彼の人生観と世界観をそのまま縮約したものであることを理解したのは、
だいぶ後になってからのことである。
筆者は五年程前にパリで、知り合いの初老の女性カウンセラーから、
夫が若い女性と駆け落ちしたと聞いて、
彼女を慰めるために
「私の父と同年齢の精神科医の言葉だけれど」と断ったうえで、
先ほどの喜怒哀楽の話をした。
すると彼女は大粒の涙を流し、私を背骨が折れそうになるくらい強く抱きしめて
「その精神科医の言葉は私の魂を救ってくれた」と言い、
こう付け加えた。
「私たちフランス人がよく言うセラヴィ(それが人生)って、そういうことなのね」。
(村澤真保呂・村澤和多里『中井久夫との対話 生命、こころ、世界』
河出書房新社、2018年、pp.228-9)

 

二ページまるまるの引用です。著者たち二人の父親と中井久夫さんが親友で、
著者たちはものごころついた頃から
「中井久夫」の名前を聞かされて育ったという。
時間の長さにかんけいなく、
肝胆相照らす仲というのもあるかもしれませんが、
この本は、
ひとのちからではどうすることもできない時間によって醸される行き交い、
とでもいったものが、
そこここにしずかに鳴っており、
それがこちらの深い処にひびいてきます。
引用を、
著者の一人村澤真保呂さんと中井さんの会話だけで済ませようとも思いましたが、
中井さんとの会話が著者のこころにずっとのこっていて、
仕事がらもあってよみがえる箇所に唸り、
さらに、
それがフランス人の女性との会話の際に、
意識して話し出すところも、
言い知れぬ感動を覚え、
読むだけでなく、
入力する身体動作をつうじてもわたしのこころに刻んでおきたくて、
ながく引用しました。
著者たちのご尊父は、2004年1月2日に他界されたとのこと。
ご尊父を見舞いに行ったときの中井さんの行動も、
涙なしには読めませんでした。

 

・思ひ出は後悔もある桜かな  野衾

 

ふり返る朝

 

定期検診のため、家の近くにあるクリニックへ行った帰るさ、
てくてく歩道を歩いていたときのこと、
こちらへ歩いてくる一人の女性があった。
あ!
いくつぐらいだろう。
八十にはまだ届いていないのかもしれない。
そんなふうに意識にのぼったのは、
女性がなんの気なしに、
歩道と車道の境い目のブロックを踏み、四、五歩、歩いたからだ。
女性の口元は、
気持ち微笑んでいるようにも見える。
すぐに歩道の中央へ戻りわたしとすれ違う。
どうしていま端のブロックを歩いたのか、尋ねてみたかった。
天気がいいし、
なんとなく嬉しくなったのかな。
いや、とくに何ということはなかったのか。
ことばを選んで尋ねようか。
それでもやっぱり驚かせてしまうだろうか。
わたしは立ち止まり、
ふり向いてしばらく女性のうしろ姿を目で追った。
子どもがよくやるブロック踏みを、ひとり歩きながら、思いついて四、五歩、
のこころを想像し、ほれぼれした。
気分をよくし、百八十段ある階段に向かった。

 

・うららなる朝の歩道の四五歩かな  野衾