詩人アウグスティヌス

 

さあ、できるならばふたたび見よ。君はたしかに善いもの以外のものを愛さない。
高い山、なだらかな丘、広大な平野のある大地は善い。美しく肥沃な農園は善い。
造りがよく広く明るい家は善い。活力ある身体を持つ動物は善い。
おだやかで健康に適した空気は善い。美味で身体のためになる食物は善い。
痛みと疲れのない健康な状態は善い。
形よく表情が愛らしく生き生きとした人の顔は善い。
甘美な一致と真実な愛を持つ友の心は善い。正しい人は善い。
富は貧困から脱するのに役立つので善い。太陽と月と星を持つ天空は善い。
天使の聖なる服従は善い。
やさしく教え、聞く人にふさわしい仕方で教え、心を動かす論談は善い。
リズムがあって想念が荘重な詩歌は善い。
これら以外に何かあるだろうか。
これも善い、あれも善い。
その「これ」を取れ、「あれ」を取れ。
そしてできるならば善そのものを見よ。
そのとき君は、
他の善によって善なる神ではなく、
すべての善の善である神を見るであろう。
(泉治典[訳]『アウグスティヌス著作集 第28巻 三位一体』
教文館、2004年、p.235)

 

アウグスティヌスは論理学が好きらしく、
かつまた得意でもあるらしく、
彼のものを読んでいると、
「ああ、もういいよ。わかったわかった、わかったから」
と、
辟易しがちになることが間々あります。
が、
引用したような文章がたまに現れ、
論理思考でヒートアップしたアタマが静かにクールダウンします。
この箇所には、
おそらく旧約聖書のコヘレトの言葉がひびいている
と思われます。

 

・花曇り日はあてどなく行き場なし  野衾

 

さまざまのこと思いだす

 

休日、自宅を出ていつもの階段を下りていくと、
坂の中ほどにあるアパートのドアが開いたままになっており、
タンクトップ姿の初老の男性が入口にしゃがみ、休んでいる風でありました。
引っ越し作業で疲れたのかもしれません。
思い起こせば、
わたしはこれまで九回引っ越しをしましたけれど、
いま住んでいるここがいちばん長くなりました。
ふるさと秋田の高校を卒業し、
初めて一人暮らしをしたのは、宮城県仙台市にある八木山という土地で、
山のなだらかな斜面に家々が立ち並び、
ひろびろした景観がこころを和ませてくれました。
大学と、住まいするアパートとのほぼ中間地点に八木山橋があり、
ふだんは50ccのバイクで通過するだけでしたが、
休みの日など、
ふと思い立って歩いてみると、
橋の上からのぞく渓谷は、
眩暈を起こすぐらいの深さをたたえ、
日常を忘れるにはもってこいの景色でした。
渓谷の急斜面には、自然の木々がひしめいていました。
桜もきっとあったでしょう。
「でしょう」というのは、
いまはっきりとは思い出せないからです。
桜を見れば、
今も昔も、きれいとは思いますけれど、
立ち止まって眺めることは、あまりしなかった気がします。
動かないものより、
激しく動くものに興味を奪われていたのでしょう。
齢をかさね、
動きが悪くなって来るにつれ、
どうやら、
動くものよりも動かないもの、
激しく動くものよりも静かに動くもののほうに興味が移っていくようです。
こういう気分になってみると、
思い出すのは、
『男はつらいよ』第一作冒頭の寅さんのセリフ。
「花の咲く頃になると決まって思い出すのは、
故郷のこと、
ガキの時分、洟垂れ仲間を相手に暴れ回った水元公園や
江戸川の土手や帝釈様の境内のことでございました。」
年齢が言わせた名台詞でしょう。
そして桜の名句といえば、
いろいろあるなかで、
芭蕉の句は忘れられません。

 

さまざまの事おもひ出す櫻かな

 

『男はつらいよ』第一作では、こんな場面もありました。
妹であるさくらの見合いの席で、
酒を飲んでひどく酔っ払った寅さんが、
さくらの名前を解説し、
「にかいの女が気にかかると読める」と口上を言い、
一同の爆笑を誘う。
これは、
木偏に貝が二つ、その下が女
という文字を解体したところから来るシャレで。
寅さんの口上をまた聴きたくなりました。

 

・花曇りよき思い出の湯に浸かる  野衾

 

悲しい顔のピエロ

 

「泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時があり」(コヘレト3・4)。
悲しむことと踊ることを完全に分けることは出来ません。
一つが、必ずしももう一方に続くわけではありません。
実際には二つの時が一つの時となるかもしれません。
一方が終わりもう一方が始まる、はっきりとした時点が示されることなく、
悲しみが喜びに変わり、
喜びが悲しみに変わるかもしれないのです。
しばしば、
悲しみのための空間が踊りによって作り出される一方で、
その踊りの振り付けは悲しみによって生み出されてゆきます。
私たちは親友を失って涙にくれながら、
味わったことのない喜びを見出したりします。
また成功を祝う喜びの談笑のただ中にあって、深い悲しみに気づくことがあります。
悲しむことと踊ること、悲嘆と笑い、悲しみと喜び。
これらは、
悲しい顔のピエロと嬉しそうな顔のピエロが一人であるように一つのものです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.126)

 

すぐにギリヤーク尼ヶ崎さんの踊りが思い浮かんだ。
たしか六角橋商店街の路上、
はじめてギリヤークさんの踊りを目の当たりにしたとき、ぶっ飛んだ。
カセットテープに吹き込んだ三味線の音に合わせて
「鬼の踊り」が始まる。
あのころは、
まだ心臓にペースメーカーが入っていなかったかもしれません。
踊りの最後の方で、
バケツに水を汲み、アタマから水をかぶる。
鬼気迫る。
なんという踊りか。
知らぬ間に、見ていたわたしの頬を涙が伝い、笑いがこみあげてきて、
ギリヤーク!! 拍手を送った。
「鬼の踊り」はやがて「魂の踊り」となり祈りとなる。

 

・カレンダー歯医者予約日春愁ひ  野衾

 

のびのび西遊記

 

蜈蚣というのは、雄鶏だけが大敵――
『本草綱目』巻四十二所引の寇宗奭《こうそうせき》『本草衍義《ほんぞうえんぎ》』
によれば、
蜈蚣の毒にやられた場合は、
「烏か鶏の屎あるいは大蒜《にんにく》を塗ればよい」とのこと。
これと関係あるかどうか不明だが。
ついでに、
蜈蚣は蛞蝓《なめくじ》も苦手で、さわっただけで死んでしまうという。
さらについでに言えば、
蜈蚣の大きいのは一丈余にもなり、牛をも食ってしまう、と。
そしてその肉は、牛肉よりおいしい、と(!)。
ホントかね?
(中野美代子[訳]『西遊記(十)』岩波文庫、1998年、p.374)

 

ただいま電車内で読む本は岩波文庫の『西遊記』でありまして、
最終の第十巻も、ようやく終りに近づきました。
三巻目までは、小野忍さんの訳でしたが、
1980年に小野さんが急逝され、
その後を中野美代子さんが引き継ぎました。
さいしょ、
翻訳された日本語の文体が、小野さんと中野さんではそうとう違っていて、
戸惑いましたけれど、
読み進めているうちに、
原文のもつニュアンスは分かりませんけれど、
おそらく、
『西遊記』というのは、
いわゆる高尚な(?)お堅い文学作品とは言いがたい雰囲気が元々あって、
むしろそれがこの作品の味なのかもしれない、
中野さんは、
それを
(批判が起こりそうなことを承知の上で)
日本語の文体に反映させたのではないかと想像する
ようになりました。
猪八戒の登場場面で、
中野さんは、
「このあほんだらが…」
と訳されていて、
「あほんだら」に強調の傍点まで付しています。
猪八戒の言動はたしかにあほんだらで、
しょっちゅう羽目を外しては孫悟空を困らせます。でも、憎めない。
さて上で引用した箇所は、
100回ある内の第九十五回に出てきた
「蜈蚣というのは、雄鶏だけが大敵」
の文言に対する注で、
注自体の言い回しにも、
中野さんらしさ(もちろんそれもあるでしょう)、
というより、
ひょっとしたら、
西遊記らしさが表れているのかもしれません。
ちなみに蜈蚣は「むかで」、
一丈は約3メートル。

 

・猫ひろし、もとい、窓広し春新館工事止む  野衾

 

なにがだいじか

 

精神病理学会場では演題を聞かずに、
精神の危機にあるとおぼしき風貌の若手医師の隣にさり気なく座り、
休憩時間になっても静かに談笑していた姿を何度か目撃した。
中学時代に夜になると天井に誰かがいると言い、怯えている友人の家を訪ねて
二晩寝泊まりした。
一緒に天井を調べ、誰もいないことを確かめた。
以後その友人の怯えは消えた。
また、
医局の高価な医療機器が損壊した責任を押し付けられた友人医師
(ムツゴロウこと畑正憲氏も友人だったと聞く)
が失踪したことを知り、
推理を働かせて行き先を追ったが、
寸でのところで彼の自殺を止められなかった悲しみと
当時の医局講座制への怒りを抑えながら運転する私に語った
(これはのちの『日本の医者』にも収載されている)。
(統合失調症のひろば編集部[編]『中井久夫の臨床作法』日本評論社、2015年、p.2)

 

本を買ったときも目をとめた文章ですが、
あらためて読んでみると、
やはり目が留まり、
中井久夫さんの凄さがひしひしと伝わってきます。
この文章は、
この本の「刊行に寄せて」として精神科医の星野弘さんが書いたもの。
著書、訳書をあわせ、
中井さんのものを、
これまでいろいろ読んできましたが、
先だって『中井久夫との対話 生命、こころ、世界』
を読み、
思うところがありまして、
また中井さんの文に触れたくなりました。
日本を代表する著名な精神科医でありながら、
(この場合「ありながら」はおかしいかもしれません)
自身の職業的なもろもろを離れ、
なにが大切かを忘れないところが凄いと思います。
それがあるから、
日本を代表する精神科医なのでしょう。
京都大学に入学して間もなく結核に罹病していることが判明し
休学したことが、
中井さんのその後の人生に大きく影響したのではないか
と思ってきましたが、
上で引用した文章を読むと、
中井さんのセンスは、
自身の病気の体験よりもさらに深いかも知れず、
そのセンスが、
病気をとおして更なるものになったか、
とも思えてきます。
なによりも、
中井さんの書くものには「希望」があります。
かつて春風社のPR誌『春風倶楽部』にご寄稿いただいたことを、
なつかしく、
うれしく思い出します。

 

・春寒し道路拡張工事中  野衾

 

『狂気の歴史』

 

十八世紀以来、非理性的な生活は、
もはやヘルダーリンやネルヴァルやニーチェやアルトーらの、
閃光のような作品のなかにしか現われない。
――しかもそれらの作品は、
治癒するたぐいの精神錯乱につれ戻されることは永久にないし、
また、
例の大規模な道徳本位の投獄監禁――
人々が、おそらく反語的にであろうが
習慣上ピネルとテュークによる錯乱者の解放と呼んでいるあの投獄監禁に
自分に特有な力で抵抗している。
(ミシェル・フーコー[著]田村俶[訳]『〈新装版〉狂気の歴史』新潮社、
2020年、pp.619-20)

 

翻訳された日本語をとおしてではありますが、
それでも、
フーコーを読んでいるときの解放感は独特でありまして、
たとえて言うなら、
へ~、
俺ってこんなところに立っていたのか、
と、
高い高いタワーの展望台に上り、
厚いガラスでできた床の下を覗き見るような、そういうたぐいの興奮を覚えます。
本書巻末の索引によれば、
ピネルはフランスの著名な精神科医で、1792年ビセートルに勤務し、
当時狂人と見なされた人々に対して《解放》を行った。
テュークはイギリスの社会事業家。

 

・春なれば富士の高嶺のはるかなる  野衾

 

人生の貌

 

秋田に住んでいる弟の文章が地域誌に掲載されました。
父がいたく褒めていたので、
弟にたのみメールに添付して送ってもらいました。
公立の中学校を定年で辞め、
いまは町から委嘱され
「井川こどもセンター」の園長を務めています。
「新米園長にできること」
というタイトルで、
まだ村だったころの井川幼稚園の一期生当時の思い出と現在の心境をむすぶ
カイロス的時間がしずかに解きほぐされ、
思索の過程が読む者にゆっくり伝わってきます。
父と同様、わたしも、
いい文章だと思いました。
文のタイトルの横に、
割と最近の弟の顔写真が掲載されています。
よく知った弟の顔をしばらく眺めているうちに、
昨秋読んだ矢内原忠雄の『ダンテ神曲講義』を思い出しました。
矢内原もダンテも時代の波を強く受けた人ですが、
ダンテの肖像画を見、
言葉少なくつぶやくように語った矢内原
のことが記録されてありました。
いま手元に本がないので確かめられませんけれど、
ダンテの顔に刻まれた人生を思っての言葉だったと思います。
それは、
ダンテの顔についてのコメントであるけれど、
見方を変えれば、
人生の相貌、貌のことを言っているのだと感じられました。
子どものころ、わたしは、
だれと遊ぶよりも弟と遊びました。
というよりも、
わたしと弟がセットで、ほかの友だちと遊んだ、
と言ったほうがいいかもしれません。
ふるさとを離れてからも帰省すれば会ってきたし、
このごろは老いた両親のことを電話で話す機会が増え、
気ごころをお互いに知っていると感じますが、
当然のことながら、
知らないことのほうが圧倒的に多く、
それが人知れず、顔に刻まれているということかもしれません。
時代がちがい、国がちがっていても、
例外なく人生は、
人生そのものを人の顔に刻むようです。

 

・うららなる公園の水見てをりぬ  野衾