稲作と地すべり

 

もう一つこういうところが古く開かれ、
原始農業といっては少しいいすぎかもしれませんが、
それに近いような古い農業開発が行なわれたについては、もう一つ用水が簡単にえられ、
鉄の道具がなくても、
開田と耕作ができるということも大切なことであろうと思います。
その例が新潟県東頸城郡牧村の神野《かみや》という地すべり地帯にあります。
ここは非常におもしろい稲作をやっておりますが、
地すべり地帯には水たまりがいたるところにできる。
その水たまりにはアシやヨシなどが一面に生えます。
農家はそのヨシやアシを手で抜いて、裸になって飛び込んでかきまわし、
いきなり籾をまきます。
つまり直播をする。
肥料は全然やりませんが、
こういう原始的な栽培でも平均二石六斗くらいの米がとれるのであります。
それも、
あまり早く直播をすると伸びすぎてしまいますから、
だいたい七月半ばごろから終りにまきつけると、ちょうどいいとのことであります。
新潟の地すべり地帯には、
こうしたところがちょいちょいあります。
ですから、
こういうところにまいりますと、
畑の中に一坪、二坪、
あるいは、もっと小さい三尺四方くらいの水田がポツンポツンとある。
水田といっても、水たまりにそういう方法で稲を植えている。
畑の中に大小さまざまの、丸い形をした一群の稲が植わった水たまりがあり、
二石五斗、六斗もとれるというわけで、
驚くほど簡単な稲作が行なわれております。
(柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎ほか『稲の日本史 下』1969年、筑摩書房、p.237)

 

引用した箇所の発言は、小出博さん。昭和32年5月25日のもの。
小出さんは、東京農業大学で教鞭を取られた方で、
農学博士、理学博士。
この発言の前に、
棚田を作ると地すべりが起きやすいのではないかと、
なんとなく考えられているけれど、
実際はそういうことではないとの具体例として披露された話。
水と、水によって運ばれる肥沃な土によって稲が育つということであってみれば、
ヘロドトスの有名なことばも連想される。
まさに、
「水と緑と土」の恩恵ということになりそうだ。

 

・うつつより忘れ得ぬ夢花野かな  野衾

 

ヤッシャ・ハイフェッツ

 

中学時代の音楽担当は、小林恒子(こばやし つねこ)先生。
拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』
に、
先生の思い出を取り上げましたが、
ほかにもいくつか忘れられないエピソードがありまして。
一年生のときだったでしょうか、
聴いた途端、
のけぞったことがありました。
サラサーテというひとが作曲したツィゴイネルワイゼン。
サラサーテ、
ツィゴイネルワイゼン。
音楽の衝撃とともに覚えましたので、以来、忘れたことがありません。
その後、
高校、大学を経て社会人となり、
ときどき耳にすることがありました。
なつかしく、
ただなつかしく。
あるとき、ふと、疑問が湧いてきました。
恒子先生が聴かせてくださったツィゴイネルワイゼンは、だれのものだったろう。
その疑問が湧いてからというもの、
それまでなつかしい気持ちで聴いていたツィゴイネルワイゼンが、
ちょっとちがって聴こえてくるようになった。
母をたずねて三千里、
はたまた、
名探偵コナンの、真実はいつもひとつ、
とでもいうのか、
恒子先生が教えてくれたツィゴイネルワイゼンの衝撃の度数を知りたくて、
事あるごとに耳を澄ませた。
ちがう。
ちがう。
これではない。これもちがう。
何年、いや、もっと。
あるとき、
ラジオだったか、なんだったか、
とんと忘れてしまったけれど、
息が止まるように感じた。こ、これだっ!!
ヤッシャ・ハイフェッツ。
きいたことのない名前。
しかし、
記憶のなかのツィゴイネルワイゼンの衝撃にぴたりと一致した。
恒子先生が聴かせてくださったのは、
これにちがいない。
まちがいない。
そう信じていますが、
真実かならずしも事実でないように、
そうでなかったかもしれません。
ただ、
ヤッシャ・ハイフェッツが演奏するツィゴイネルワイゼンは、
あのときの衝撃をたしかに再現してくれます。

 

・田仕事を生きて楽しも初穂かな  野衾

 

ロックのルーツ

 

理想はバッファロー・スプリングフィールドだということをふたりは理解していた。
けれども、
そのサウンドを単にコピーするだけではない、
しっかりと深く張られた根のようなものを見つける
ことが新たなバンドには必要だった。
それにはいくつかのヒントがあった。
細野が念頭に置いたのは、
バッファロー・スプリングフィールドのセカンド・アルバム『アゲイン』
の裏ジャケットに記された、膨大なサンクス・クレジットだ。
オーティス・レディング、ハンク・ウィリアムズ、ベンチャーズ、ジミ・ヘンドリックス、
エリック・クラプトン、
ビートルズ(ナーク・ツインズ&ジョージ、リンゴと記載されている)、
バーズ、フランク・ザッパ、ストーンズ、ドノヴァン、ジェファーソン・エアプレイン、
ロバート・ジマーマン(ボブ・ディラン)――。
影響を受けたミュージシャンの名前が七十とちょっと羅列されるなかに、
細野はカナダの政治家(レスター・B・ピアソン)や
イギリスの画家(ジョージ・ロムニー)の名が混じっているのを見つけた。
そしてそういった強固な土台を自分たちも築かなければならないと考えた。
音楽的なものだけではない、
自分たちの本質的なルーツと言える土台を。
(門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』2020年、文藝春秋、pp.98-9)

 

2013年に亡くなった著名な民俗学者、地名学者で
作家、歌人でもある谷川健一さんと対談する機会があったとき、
対談本番の前に、
谷川さんの著書について感想を述べたところ、
谷川さんがいたく喜んでくださり、
笑いながら、
いまの歌人たちが、じぶんの短歌が掲載された雑誌は見るけれど、
ほかの本をあまり読まないと仰った。
『細野晴臣と彼らの時代』をおもしろく読んでいて、
そのときのことを思い出した。
どのジャンルでも、
個性はだいじだろうけれど、
ほんものの個性があるとすれば、
それは根を持っているということかもしれない。
たとえば、
バッファロー・スプリングフィールドがその例であり、
細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂の四人で構成された日本のロックバンド、
はっぴいえんど、
ということになるだろう。

 

・天高し千歳の農の仕事かな  野衾

 

和気あいあいの議論

 

何ゆえに水田における稲作を中心にしたのか、
さきほども申しましたように大陸においてはいろいろな農作物があったにちがいない
のに、
日本においてはどうして水稲を選んだのであろうか
ということを問題にしたわけでございますが、
わたくし自身としては、
当時の日本では割合に現在よりも湿地が多かった
ということは地形史の方からもいわれておりますし、
おそらくはそのような自然現象、環境を利用したということと、
これはおしかりを受けるかと思いますが、
水田において稲を作ることが当時としては割合に安定度の高いものであったので、
それでそういう結果になったのではないかと
わたくしはひとりでそのような判断をしているわけでございます。
いずれにしても、
弥生時代というものは、
稲を作ることが水田においておこなわれたということで、
もう一つ特徴づけられると思います。
(柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎ほか『稲の日本史 下』1969年、筑摩書房、p.69)

 

引用した箇所の発言は、
1947年の静岡県登呂遺跡発掘調査において中心的役割をはたし、
明治大学で教鞭をとられた杉原荘介。
発言自体は、
昭和35年10月15日で、
いまから60年以上前のことであり、
現在の知見からいえば、
古びたところがいろいろあるかもしれない
けれど、
この本のおもしろいのは、
参加者それぞれが専門領域を持ちつつ、
けっこう自由に、ばちばちと議論をたたかわせていること、
ときに笑いが起きたりもし。
柳田國男が安藤広太郎に向かい、
「先生があまり本ばかり、
テキストばかりに重きを置きすぎることに抗議します。(笑声)」
と発言しているところなど、
柳田さんの口吻を想像して楽しくなります。

 

・稲刈りの父九十の齡かな  野衾

 

記憶の知恵

 

山に藤の花が咲く頃、農家では田んぼに水を引き入れます。
前もって耕していた田んぼに水を入れ、
代《しろ》かきをして田植えの準備をするためです。
藤の花は温まった沢の水を吸って咲きます。
山際の用水路のほとりにはめっきり少なくなったサワオグルマの花が咲きました。
白い綿毛をもった葉に包まれて黄金色に咲く様は、
ヤマブキの花と並んでこの季節、
黄色い花の代表です。
藤、サワオグルマ、ヤマブキと、
この花たちが咲き競えば、
田んぼの中で稲の根が伸びられる水温になった証拠です。
少し遅れて山には赤い山つつじが咲きます。
つつじの別名は「さつき」です。
農家では田植えのことを「さつき」と言います。
山のつつじは背丈が低くて遠くからは見えにくいけれど、
大きな木にからまる藤は遠くからでも良く見えます。
だから田んぼに水を引く目安になるのです。
(鈴木二三子『里山の言い伝え お天気小母さんの十二ヶ月』嶋中書店、2005年、pp.37-8)

 

著者の鈴木二三子(すずき ふみこ)さんは、
福島県西会津町で農業を営む方。
明治生まれの祖父から自然観察による天気予報を学んだそうです。
まえがきには、
「祖父もまた、その祖父から教わってきたに違いありません」
と記されています。
ここに、
幾千年、営々と行われてきた農業の知恵が育まれているのでしょう。

 

・稲揺らし連れ立ちてゆく秋の風  野衾

 

日々の木簡をつなぐ

 

拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』の「はじめに」の最後
に、
「アタマから読む必要はまったくなく、
開いたところ、
目にとまった箇所を読んでいただければうれしいです」
と書きました
が、
それをことばのあやでなく実現する
ためには、
どうしてもコデックス装にする必要がありました。
上製本の背のボール紙を外し、
どのページも水平まで開くようにする。
かつ、隣り合わせのページとページが離れないように、糸でかがる。
そうやってできた今回の本を、
あらためて読んでみ、
あることに気が付きました。
一日一日の日記は、
ページを跨いでいる場合もありますが、
一ページにちょうど収まっているものもあります。
ある日の記事が右にあり、
翌日の記事が左にあり、
それが糸で結わえられ、つながっている。
あ、
これって木簡みたい、
って思いました。
毎朝四時に起きてパソコンに向かい、サッと書いたり、うんうん唸って書いたり、
しても、
書いて電源を落とせば、
朝一番の仕事は終り。
この時点で、
つぎの日の朝、何を書くかは、全く予想していない。
一日と一日のつながりは、
わたしは分からないし、だれにも分からない。
なのに、
一冊の本ができて、
水平に開いたページとページを比べ眺めていると、
ページをつないだ糸と同様に、
ページの背後にある精神と精神のつながりがぼんやり見えてくるような、
そんな気がしてきます。
面白いことだと思います。
じぶんの書いたものがじぶんのものでない。
「冊」の字が、
紐でつながれた木簡を表す象形文字であることに、
合点がいきました。

 

・記紀万葉記録どよもす稲つるび  野衾

 

語りの妙

 

現在埋め立て新田が、
一望ほとんど見はるかすことのできないような広い面積を機械的に
一遍に灌漑しておるのを見つけておりますために、
昔の日本の本田の耕作の仕方について、
あるいは疑ってよく知らない人が、
山村の人以外にはあるかもしれませんが、
小さな本田で上から落ちてくる水を順々にうけて、
なるべく上から無駄なしに使わせるという溝道灌漑が、
おそらく総面積の半分も、
三分の二も
占めておった時代があるのじゃないかと思います。
(柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎ほか『稲の日本史 上』1969年、筑摩書房、p.79)

 

引用した箇所の講演は、
柳田國男が昭和28年2月に行ったもの。
わたしがまだ若いころ、
筑摩書房の柳田國男全集を片っ端から読んだ時期がありました。
いま改めて稲の歴史に興味が湧き、
古書で求めた『稲の日本史』を読んでいるところですが、
内容もさることながら、
語り口調がいかにも柳田さんで、
棚田の水が上の田から順々に、ちょろちょろと、下の田へ落ちてくるような、
そんな呼吸を懐かしく嬉しく感じます。

 

・天と地とこの壮大の稲つるび  野衾