日々の木簡をつなぐ

 

拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』の「はじめに」の最後
に、
「アタマから読む必要はまったくなく、
開いたところ、
目にとまった箇所を読んでいただければうれしいです」
と書きました
が、
それをことばのあやでなく実現する
ためには、
どうしてもコデックス装にする必要がありました。
上製本の背のボール紙を外し、
どのページも水平まで開くようにする。
かつ、隣り合わせのページとページが離れないように、糸でかがる。
そうやってできた今回の本を、
あらためて読んでみ、
あることに気が付きました。
一日一日の日記は、
ページを跨いでいる場合もありますが、
一ページにちょうど収まっているものもあります。
ある日の記事が右にあり、
翌日の記事が左にあり、
それが糸で結わえられ、つながっている。
あ、
これって木簡みたい、
って思いました。
毎朝四時に起きてパソコンに向かい、サッと書いたり、うんうん唸って書いたり、
しても、
書いて電源を落とせば、
朝一番の仕事は終り。
この時点で、
つぎの日の朝、何を書くかは、全く予想していない。
一日と一日のつながりは、
わたしは分からないし、だれにも分からない。
なのに、
一冊の本ができて、
水平に開いたページとページを比べ眺めていると、
ページをつないだ糸と同様に、
ページの背後にある精神と精神のつながりがぼんやり見えてくるような、
そんな気がしてきます。
面白いことだと思います。
じぶんの書いたものがじぶんのものでない。
「冊」の字が、
紐でつながれた木簡を表す象形文字であることに、
合点がいきました。

 

・記紀万葉記録どよもす稲つるび  野衾