和気あいあいの議論

 

何ゆえに水田における稲作を中心にしたのか、
さきほども申しましたように大陸においてはいろいろな農作物があったにちがいない
のに、
日本においてはどうして水稲を選んだのであろうか
ということを問題にしたわけでございますが、
わたくし自身としては、
当時の日本では割合に現在よりも湿地が多かった
ということは地形史の方からもいわれておりますし、
おそらくはそのような自然現象、環境を利用したということと、
これはおしかりを受けるかと思いますが、
水田において稲を作ることが当時としては割合に安定度の高いものであったので、
それでそういう結果になったのではないかと
わたくしはひとりでそのような判断をしているわけでございます。
いずれにしても、
弥生時代というものは、
稲を作ることが水田においておこなわれたということで、
もう一つ特徴づけられると思います。
(柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎ほか『稲の日本史 下』1969年、筑摩書房、p.69)

 

引用した箇所の発言は、
1947年の静岡県登呂遺跡発掘調査において中心的役割をはたし、
明治大学で教鞭をとられた杉原荘介。
発言自体は、
昭和35年10月15日で、
いまから60年以上前のことであり、
現在の知見からいえば、
古びたところがいろいろあるかもしれない
けれど、
この本のおもしろいのは、
参加者それぞれが専門領域を持ちつつ、
けっこう自由に、ばちばちと議論をたたかわせていること、
ときに笑いが起きたりもし。
柳田國男が安藤広太郎に向かい、
「先生があまり本ばかり、
テキストばかりに重きを置きすぎることに抗議します。(笑声)」
と発言しているところなど、
柳田さんの口吻を想像して楽しくなります。

 

・稲刈りの父九十の齡かな  野衾