ヘビ楽しぐ

 

今週月曜日、秋田魁新報(あきたさきがけしんぽう)文化欄に、
拙稿「青大将のこと」が掲載されました。
青大将は、
日本に棲息する大型の無毒のヘビで、
映画「若大将シリーズ」に登場する田中邦衛演じるところの石山新次郎のニックネーム
ではありません。
さて、
拙稿を読んだ秋田県男鹿市在住の義理の叔父から電話があり、
記事の内容にまつわる共通の思い出についてあれこれと。
今月82歳の誕生日を迎えた叔父は、
毎朝散歩をしていて、
このごろ宵待草を見たそうで。
六日の朝、散歩をしていると、道端に叔父が見つけた宵待草が咲いていて、
そこにヘビがいた。
コンビニで新聞を買って開いたら、
そこに「青大将のこと」。
細部が違っているかもしれませんが、
おおよそそんな話で、
叔父は不思議な符号を感じたようでした。
「八十二歳になって、これからもヘビ楽しぐ暮らしたいど思ている」
という叔父は、
間髪を入れずに、
「ヘビと言っても、蛇でなく、日々だぞ」
電話口で、叔父と二人、大笑いしたのでした。

 

秋田魁新報に掲載された拙稿は下記のとおりです。

 

わたしが小学四年生、弟が一年生。ふるさと井川町は、そのころはまだ村で、それぞれの町内を部落と呼んでいた。井内部落の運動会に、わが仲台部落も参加。いまは井内農村公園と名称が変わった高台にある運動場で、大人も子供も青空の下、歓声をとどろかせた。各種の競技がある中で、林檎の皮剝《む》き競争というのがあった。時間内に、いかに長く皮を剝けるかを競う。その競技に、祖母が出場した。どうなることかと胸を高鳴らせ見ていたが、祖母は、剝きはじめから最後まで、途中一度も切らすことなく優勝。剝いたリンゴの皮を高々と上げて見せたが、そのとき、重さに堪えかねたのか、摘《つ》まんだ指先10センチほど下のところから、ぷつんと皮が切れ、地面に落ちた。その後につづいた些細《ささい》なことがなければ、この事実を記憶していたかどうか分からない。
運動会が終わって自宅に帰った。何でも機敏な母は、いち早く家に入り、着替えをしに奥の寝室に向かった。ほどなく、布《きれ》を引き裂くような悲鳴が聞こえた。わたしと弟が駆けつける。見れば、畳の上に大きな蛇がとぐろを巻いていた。家の主《あるじ》然とこちらを見ている。目が合った気がした。母は色を失ったまま身じろぎひとつしない。父が飛んできて、すぐに蛇を捕《つか》まえ、外に出て行った。父のことだ。すぐに殺して、積み上げた杭《くい》の上にでも放ったのだろう。鳶《とび》に食わせるつもりで。

勤めていた東京の出版社が倒産し、仲間二人と横浜で出版社を起こして2年が過ぎた平成13年、5月に祖父が亡くなった。新盆《にいぼん》の帰省の折、朝、鶏小屋に卵を取りに行った母が血相を変えて家に飛び込んできた。青大将が鶏の卵を飲み込んで喉《のど》を膨《ふく》らせ、小屋の中に陣取っているという。父が飛び出し、しばらくすると、太い、長すぎる青大将のしっぽをつかみ、こちらで見ている家族、親戚の者に、これ見よがしに差し出してから、ぐるんぐるんと車輪のごとくぶん回したかと思いきや、庭先のコンクリートに青大将の頭を叩きつけた。飲み込んだ卵とともに、頭が破裂し、派手に黄の色が飛び散った。少しやり過ぎではないかと、そのときわたしは思った。
それから6日過ぎた8月21日、父は大型機械に乗っていて大けがをし、瀕死の重傷を負った。産業廃棄物の集積場に持ち込まれるゴミをバックホーで均《なら》しているうちに、堆積《たいせき》したゴミの塊《かたまり》の上に乗り上げ、機械ごと崖下に転げ落ちたのだ。頸椎《けいつい》を損傷し、数ミリずれていたら、半身不随になるところだったと医者に言われたらしい。退院してしばらく経《た》ってから、蛇の祟《たた》りではないかと、冗談でなく父に電話で尋ねた。蛇は不死だというよ、父さん…。あれが蛇の祟りなら、これまで何十回祟られて、いま生きているはずもないと、父に窘《たしな》められた。

ふるさとに帰れば、雨や雪で外出ができない日以外は、だいたい近くを散歩する。五月の晴れやかな日、妻と連れ立ち、井内から大麦方面へてくてく歩き、せせらぎに誘われるように川岸に近づいて、コンクリートで固められた幅30センチほどの徑《こみち》をそろり進んでいたとき、妻がギャッと叫んだ。見れば、青大将がコンクリートの上でとぐろを巻いている。大丈夫だよ、かかってこないよ、ジャンプするさ。ためらっていた妻は、あきらめたのか、エイッと跳んだ。わたしも後につづいた。跳んでいる最中、時間にすれば、おそらく一秒もないぐらいであったろうが、変な気に襲われた。

47歳のとき、酒を飲んでから近所の子供と遊んでいて転倒し、しこたま左の肩を打った。鎖骨《さこつ》遠位端骨折《えんいたんこっせつ》と医者がメモ用紙に書いてくれた。レントゲン写真で見ると、骨が跳ね橋のように離れ、浮いている。ベルトで固定し、半年ほどで骨はくっついたが、しばらくして今度はうつ病を患った。ながく暗いトンネルに入ったようなものだった。家に居て、じっととぐろを巻くように、対象を指し示さぬ意識が剝きだして、ギロギロと。記憶のしっぽを食いちぎり、ただ柱時計ばかりをにらんでいた。
うつ病を患ったことのある詩人から速達の手紙をもらった。原稿用紙に、手書きの文字で、経験を踏まえての親切な処方が記されてあった。それを正しく守り、心療内科に通い、それでも足りなくて、マッサージ師、気功師の門を叩いた。
数年が経ち、ようやく灯《あか》りが見えてきたころ、ながい付き合いのカメラマンが、横浜の拙宅を訪ねてくれた。散歩がてら一緒に外へ出て、コンビニでつまみを買い、帰途について間もなく、カメラマンのH氏が、「三浦さん、アレ」と、川が急曲がりに蛇行する辺りを指差した。見れば、2メートルは優にあるかと思われる青大将が、今井川《いまいがわ》の浅瀬にながながと横たわっている。わたしとH氏は無言のまま、保土ヶ谷橋の上からしばらくその姿を眺め入った。石伝いに蠢《うごめ》く蛇を、目で追いかけているうちに、それまでの結ぼれがゆっくりとほどけ、消えてゆくようであった。

 

・生業は農《なりはひ》が元稲つるび  野衾