詩はだれのもの

 

古くは、
詩の制作・受容において作者という概念は存在しなかったと考えていいだろう。
清・労孝輿《ろうこうよ》『春秋詩話《しゅんじゅうしわ》』は、
『詩経』の詩が作者名を欠いているいることを論じて、
「当時はただ詩だけが存在して、詩人は存在しなかった。
古人の作を自分の作とすることができたし、
誰か別の人の作を自分の作とすることもできた。
……誰もある特定の作品の作者ではなかったし、
作品は誰か特定の人が作ったものでもなかった。
……誰も作者を名乗ろうとはせず、
詩は作らずして作られていたのである」と述べている。
『詩経』の詩、
特に民歌を収める国風の詩について言えば、そこにうたわれるのは男女間の恋情や
悪政の苦しみなど誰もが了解可能な心情や出来事であって、
ある特定の個人の内面や特殊な出来事がうたわれるわけではない。
(川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹[訳注]
『文選 詩篇(五)』岩波文庫、2019年、p.405)

 

中学、高校の国語教科書に、有名な中国詩がいくつか載っていて、
試験の前ともなれば、暗記したものでした。
五言絶句、七言律詩、
といっても字数にすればたかが知れていますので、
それになんといっても若かった
ですから、
それほど苦もなく暗唱できました。
込み入った現代国語、にょろにょろ鰻のような日本の古文と違い、
すっきり、くっきりとしていて、
潔い感じがした。
屈原のエピソードも、
中国詩に対する印象を色付けていたかもしれません。
引用した箇所は、
浅見洋二さんが書いていますが、
なるほどと合点がいき、ふかく共感するところです。

 

・駄菓子屋を過ぎて小闇へ虫の声  野衾