記憶の知恵

 

山に藤の花が咲く頃、農家では田んぼに水を引き入れます。
前もって耕していた田んぼに水を入れ、
代《しろ》かきをして田植えの準備をするためです。
藤の花は温まった沢の水を吸って咲きます。
山際の用水路のほとりにはめっきり少なくなったサワオグルマの花が咲きました。
白い綿毛をもった葉に包まれて黄金色に咲く様は、
ヤマブキの花と並んでこの季節、
黄色い花の代表です。
藤、サワオグルマ、ヤマブキと、
この花たちが咲き競えば、
田んぼの中で稲の根が伸びられる水温になった証拠です。
少し遅れて山には赤い山つつじが咲きます。
つつじの別名は「さつき」です。
農家では田植えのことを「さつき」と言います。
山のつつじは背丈が低くて遠くからは見えにくいけれど、
大きな木にからまる藤は遠くからでも良く見えます。
だから田んぼに水を引く目安になるのです。
(鈴木二三子『里山の言い伝え お天気小母さんの十二ヶ月』嶋中書店、2005年、pp.37-8)

 

著者の鈴木二三子(すずき ふみこ)さんは、
福島県西会津町で農業を営む方。
明治生まれの祖父から自然観察による天気予報を学んだそうです。
まえがきには、
「祖父もまた、その祖父から教わってきたに違いありません」
と記されています。
ここに、
幾千年、営々と行われてきた農業の知恵が育まれているのでしょう。

 

・稲揺らし連れ立ちてゆく秋の風  野衾