生物の時間

 

四日ほど前から、ベランダに蜘蛛が巣を張りました。
手すりとエアコンの室外機に吊り橋を架けるような風でありまして、
蜘蛛自体は、
吊り橋のちょうど真ん中辺りに陣取り、
悠々と、
そこで餌を待ち伏せしているのかも知れません。
強風に吹かれても動じません。
その後、幾何学模様を描くようにして、蜘蛛の巣を展開し始めました。
生き物を見るのが子供のころから好きでしたので、
観察日記をつけるみたいに、
このところ観察しておりますが、
蜘蛛は当初から糸の吊り橋、あるいは巣の真ん中辺りにいて、
そこからあまり他へ移動していないのではないか、
と思われます。
すぐに、
ユクスキュルの名著『生物から見た世界』を思い出しました。

 

雌は交尾をすませると、
その生えそろった八本の足を用いて任意の灌木の突出した枝先によじ登る。
そして適当な高さから、
下を走り過ぎてゆく比較的小さな哺乳類の上へ落ち、
あるいはそれがかなり大きな動物であったなら、
動物が体で枝をこするときにその体にくっついてゆく。
この眼のない動物は、
待ち伏せの櫓《やぐら》に登ってゆく道筋を、
皮膚全体にそなわった全身光覚によってみつけだす。
この盲目でつんぼの追いはぎは、獲物の近づくのを、その嗅覚によって、
間違いなくかぎ分ける。
つまりすべての哺乳類の皮膚腺から流れ出てくる酪酸の匂いが、
ダニにとっては、見張り場を離れて下へ落ちろ、
という信号として作用するのである。
(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル/ゲオルク・クリサート[著]
日高敏隆・野田保之[訳]『生物から見た世界』思索社、1973年、p.13)

 

ダニの止っている枝の下を哺乳類が通過するという幸運な出来事は、
いうまでもなく明らかなとおり、
そうめったにおこるものではない。
灌木の上で待ち伏せているダニの数がいかに多くとも、
それによってこの不利が埋められ、種族保存の保証が確実に得られるわけではない。
獲物がダニのいる場所を通る確率を高めるためには、
ダニの数が多いということの他に、
さらにこの虫が、
長期間食物なしで生きてゆける能力も付け加わっていなければならない。
事実ダニは異常なほどにこの能力をもっている。
ロストックの動物学研究室には、
すでに一八年間断食しているダニがまだ生きたまま保存されている。
ダニは一八年間待つことができる。
(同書、p.23)

 

めまいがしてくるような話。
待つことが不得意ジャンルのわたしには、とてもできない芸当だ。
ベランダの蜘蛛くん、
きょうはどんな具合かな?

 

・蜩や境内の子のしやがみをり  野衾

 

渥美清の視点

 

一九六〇(昭和三十五)年ごろ、渥美清は森繁を目標にしていた。
『伴淳・森繁のおったまげ村物語』(六一年)に脇役で出演していた彼は、
こういう話をしてくれた。
――雨が降る日で、渥美清は屋内で出番を待っていた。
すると窓の外から森繁が声をかけた。
「キヨシ、弁当をもらったか?」
もらいました、と答えると、森繁は「そうか……」とうなずいて、
雨の中を去っていった(この10文字に傍点)
美清は感動した、
というのだが、その〈感動の仕方〉が、苦労した男らしく、屈折している。
あの人(この3文字に傍点)にしてみれば、
そんな深い気持から声をかけてくれたのではないかも知れない、
と彼は言った。
――しかし、誰もがおれを無視しているいま、声をかけられたことだけで、
おれは嬉しかった。〈ちょっとしたこと〉かも知れないが、
だれでもができることではない。
あの人(この3文字に傍点)が他の役者とちがうのは、そういうところだ。
ほぼ、こういった話が、渥美清の巧みな話術にかかると、
映画の一場面のようになってしまう。
(小林信彦『決定版 日本の喜劇人』新潮社、2021年、pp.426-7)

 

小林信彦の書いたものに『小説世界のロビンソン』という名著(タイトルも秀逸)
がありまして、
若いとき夢中で読んだ記憶がありますが、
どこに惹きつけられたかといえば、
彼の書くものは、
とにかく視点がはっきり、くっきりとしていて、
じぶんの頭と心と体験を通した記述であるなぁと納得する。
物、人、本を論じるなら、
このようでありたいと思わせられる。
上で引用した箇所は、
渥美清のどくとくの視点を論じながら、
じつは、
小林信彦の他の追随を許さない彼ならではの視点が述べられていると思う。
『日本の喜劇人』は1972年に晶文社から刊行された。
その後、
新潮文庫版をはじめ何度かバージョンを変え、
今回が決定版だそう。
それだけ読者が付いているということなのだろう。

 

・し残して立ち止まりたる残暑かな  野衾

 

稲と日本史

 

源氏物語には、地方に赴任する受領のことが、物語の主旋律ではないけれど、
幾度か登場します。
また、
枕草子では、
たとえば田植えをする早乙女の姿
が描かれている段があります。
そういう箇所を読むたびに、紫式部、清少納言を
深いところで下支えしたはずの農業を思わずにいられませんでした。
そのことを考え始めると、
話は、おもしろいにはおもしろいし、
身につまされたり、うなずかされたりもするけれど、
源氏物語も、枕草子も、
きれいなおべべを身にまとった、
手の届かぬ女性たちの高踏的な文章表現と思えてくるのでした。
その感慨がまたまたもたげてきたのは、
いま日本書紀を読んでいるからだろうと思います。
仁徳天皇の感慨工事に関する記述、
さらに、屯倉、田部などの語彙を目にするとき、
権力者を権力の座に上らせた無名の人々の苦労と農業技術の高さ、日々の努力に、
想像が飛んでいきます。
「農はこれ たぐひなき愛」
(秋田県立金足農業高等学校校歌にでてくることば、作詞:近藤忠義)
の文言が「日輪の たぐひなき愛」(同)として、
燦然と輝きを増してきます。

 

・ひぐらしや腹のふるへのさびしかり  野衾

 

武烈天皇について

 

八年の春三月《やよひ》に、女《をみな》をして躶形《ひたはだ》にして、
平板《ひらいた》の上《うへ》に坐《す》ゑて、
馬を牽《ひ》きて前に就《いた》して遊牝《つるび》せしむ。
女の不浄《ほとどころ》を観《み》るときに、沾湿《うる》へる者は殺す。
湿《うる》はざる者をば没《から》めて官婢《つかさやつこ》とす。
此《これ》を以て楽《たのしび》とす。
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋[校注]『日本書紀(三)』
岩波文庫、1994年、p.158)

 

は!? なにこれ。
目を疑いましたので、二度三度。眠たかった頭脳が一気にメザミーン!!
ちなみに、
躶形《ひたはだ》とは、はだかのこと。
遊牝《つるび》とは、交尾のこと。
不浄《ほとどころ》とは、女性の陰部のこと。
なんでこんなことを書いたのだろう。
実際にあったことだとしたら、おぞましきこと限りなし、
だし、
フィクションだとしたら、
よくもこんなことを想像で書いたかと呆れる。
仁徳天皇などの威光を際立たせるためだとしても、疑問は拭えない。
外国向けに、
国家として威厳を示すための正史を編む必要から、
文選、漢書、芸文類聚などに学び、
ひたすら研究したことは、
いまでいうコピペ的記述の多さからもそれと知ることができるから、
ひょっとしたら、
中国の文献のどこかに、
これと似たことが出てくるのだろうか。
寡聞にしてわたしは知りません。
岩波文庫の注と補注に、
それに関しての説明はありません。
とにもかくにも、
日本書紀の編纂者がこれを書こうと考え、
実際にも書いて残し、
それを当時の天皇をはじめ幾人もが読んだであろう
ことを想像すると、
ますます分からなくなってくる。
武烈天皇の存在自体を怪しむ学者がいるとなると、
なおさら???
だ。

 

・子を叱る母公園の蟬しぐれ  野衾

 

『日本書紀』は役に立つ

 

岩波文庫の『日本書紀』は、右ページが訓み下し文、左ページが注、
巻末に補注、さらに返り点が施された漢文、
という構成になっています。
返り点が施されているとはいっても、
漢文をすらすら読める人はそうはいないでしょうから、
今の時代にあった作りかと思います。
ちなみに、
訓み下し文は、いわゆる古文でありまして、口語訳は付いていません。
さてこの休み中、
帰省が叶いませんでしたから、
注と補注に助けられながら、
『日本書紀』に没頭しておりました。
とは言い条、
注と補注の文字はいかにも小さく、
読み進めるのになかなかの困難を伴います。
昼食を食べたあとは、かならずと言っていいほど眠くなる。
きのうもそうでした。
例にたがわず、
ページの同じところを幾度も目が這います。
しているうちに、
ゆめとうつつの境があいまいとなり、
『日本書紀』を離れ、
目の前にか、目の裏にか、定かではありませんが、
ある映像が浮かび上がりました。
覚めてから振り返れば、二十代の頃に住んでいた上星川のアパートのようでした。
高校の教員として働きながら、新宿にある劇団にも所属しており、
いそがしい毎日を重ね、
休日ともなると、
一週間の疲れがどっと出て本を読みながら居眠りすることが多かった。
おっと、また寝てしまっていたな。
ん!? あれ? あなた、なんでそこにいるの? どうしたの?
あ、そう。ふ~ん。
そうなんだ。
ま、いいか。とにかく、そろそろ起きるとするか。
おや? あのひといなくなったぞ。
どこいった?
あらら、体が動かない。
うっ。まただ。
くっそ。よっ。ほっ。くっそ。うっ。は~。
寝ている夢を見ていたようです。
あ~疲れた。
二〇二一年八月十五日、ここは保土ヶ谷、
良しと。まちがいない。
それにしても、どうして上星川のアパートだったんだろう。
いままで一度も夢に出てきたことないのに。
あのひと、だれなんだろう。
夢の中では知っているような気がしたけれど。
『日本書紀』と、なにか関係があるんだろうか。あるような。無いような。
さて。

 

秋七月《あきふみづき》に、丹波国《たにはのくに》の余社郡《よざのこほり》の
管川《つつかは》の人《ひと》瑞江《みづのえの》浦嶋子《うらしまのこ》、
舟に乗りて釣す。遂に大亀を得たり。
便《たちまち》に女《をとめ》に化為《な》る。
是《ここ》に、浦嶋子、感《たけ》りて婦《め》にす。
相《あひ》逐《したが》ひて海に入る。
蓬萊山《とこよのくに》に到りて、仙衆《ひじり》を歴《めぐ》り覩《み》る。
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋[校注]『日本書紀(三)』
岩波文庫、1994年、p.84)

 

・兄と吾と大草原を天の川  野衾

 

太陽神と皇祖神

 

これら諸学説は細部では異なる見解を示しているけれど、
はじめは伊勢の地方神であった伊勢神宮が、
(日本書紀)の初伝よりもはるかに新しい時期になってから皇室の神に転化した、
と考える点では共通しており、
その点に関するかぎり、
今日学界の通説として認められているといってよい。
記紀神代巻の天照大神が太陽神であるとともに皇祖神でもある
という二重の性格は、
このような伊勢神宮の祭神の転化と考え合わせるとき、
いっそうよく理解せられよう。
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋[校注]『日本書紀(二)』
岩波文庫、1994年、pp.351-2)

 

火、穂、秀の三つの漢字のルーツがいっしょであることを併せ考えるとき、
日本の歴史と文化を根底で支えてきた稲づくり
を思わずにはいられない。
哲学者の森信三は、
「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。
しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」
と語ったが、
逢うべきひとに、一瞬早すぎず一瞬遅すぎないときに逢えるのと同じく、
本との出合いも、一瞬早すぎず一瞬遅すぎない
ということかもしれません。

弊社は、明日(11日)から15日までを夏季休暇とさせていただきます。
16日から通常営業となります。
よろしくお願いいたします。

 

・業務終了工事現場の涼新た  野衾

 

稲作と日本書紀

 

天照大神が皇祖神であるとともに神を祭る巫女としての性格をも帯びているのは、
天皇が政治的君主であると同時に最高の巫祝でもあった
(明治憲法時代でもそうであった)現実を反映するものにほかならない。
……………
古代日本では、一般に巫祝たることが同時に政治的君主たりうる条件であり、
かつ巫女的女王の実在した形迹が顕著であるから、
神代説話中の天照大神に上記のごとき性格の見出される理由も、
よく理解せられる。
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋[校注]『日本書紀(一)』
岩波文庫、1994年、p.335)

 

引用した箇所は、天照大神に関する補注の説明である。
五冊あるうちの一巻目であり、まだ読みはじめたばかりだが、
本文とも合わせ、たとえば新嘗祭、大嘗祭、
また、昭和天皇が始め、いまの天皇陛下も行なった田植えの姿が目に浮かぶ。
さらに、
二〇一八年夏の甲子園で何度か耳にした金足農業高校の校歌にある
「農はこれたぐひなき愛 日輪のたぐひなき愛」
が重なる。
日本書紀の記述の紙背から、
営々と稲作に勤しんできた人びとの祈りが生活の光となって差している、
そういう想像がもたげてくる。

 

・新涼を求め旦暮を暮らしをり  野衾