渥美清の視点

 

一九六〇(昭和三十五)年ごろ、渥美清は森繁を目標にしていた。
『伴淳・森繁のおったまげ村物語』(六一年)に脇役で出演していた彼は、
こういう話をしてくれた。
――雨が降る日で、渥美清は屋内で出番を待っていた。
すると窓の外から森繁が声をかけた。
「キヨシ、弁当をもらったか?」
もらいました、と答えると、森繁は「そうか……」とうなずいて、
雨の中を去っていった(この10文字に傍点)
美清は感動した、
というのだが、その〈感動の仕方〉が、苦労した男らしく、屈折している。
あの人(この3文字に傍点)にしてみれば、
そんな深い気持から声をかけてくれたのではないかも知れない、
と彼は言った。
――しかし、誰もがおれを無視しているいま、声をかけられたことだけで、
おれは嬉しかった。〈ちょっとしたこと〉かも知れないが、
だれでもができることではない。
あの人(この3文字に傍点)が他の役者とちがうのは、そういうところだ。
ほぼ、こういった話が、渥美清の巧みな話術にかかると、
映画の一場面のようになってしまう。
(小林信彦『決定版 日本の喜劇人』新潮社、2021年、pp.426-7)

 

小林信彦の書いたものに『小説世界のロビンソン』という名著(タイトルも秀逸)
がありまして、
若いとき夢中で読んだ記憶がありますが、
どこに惹きつけられたかといえば、
彼の書くものは、
とにかく視点がはっきり、くっきりとしていて、
じぶんの頭と心と体験を通した記述であるなぁと納得する。
物、人、本を論じるなら、
このようでありたいと思わせられる。
上で引用した箇所は、
渥美清のどくとくの視点を論じながら、
じつは、
小林信彦の他の追随を許さない彼ならではの視点が述べられていると思う。
『日本の喜劇人』は1972年に晶文社から刊行された。
その後、
新潮文庫版をはじめ何度かバージョンを変え、
今回が決定版だそう。
それだけ読者が付いているということなのだろう。

 

・し残して立ち止まりたる残暑かな  野衾