赧の字の怪

 

白川静の『漢字の体系』は、白川さんのいわば遺言のような本なので、
ゆっくり味わうように読んでいるわけですが、
ときどきハッとするようなことが書かれていて目をみはります。

 

ゼン(「赧」の字の旁、右側、入力しても出てきません)
陰部に手(又[ゆう]は手の形)をさし入れる形。
赧[タン]はその行為を受けて赧[は]じ入る形。
このような字が生まれるのは、
そのような行為が一般的に行なわれていたからであろう。
(白川静『漢字の体系』平凡社、2020年、p.275)

 

ということですが、
中国人もこれを知ったら驚くんじゃないでしょうか。
驚くだけでなく、受け入れないかもな。
許慎の説文解字には、そんなこといっさい書かれてないし。
あやしい人が言うならともかく、
白川さんが言うんだから、
それなりの根拠があるんでしょう。
いやはや。
こんなことまで漢字にしてしまうのか。
恐るべき漢字の世界。

 

・鶯の声や枝葉の揺れてをり  野衾

 

我が言ならず、とは

 

キリスト者・新井奥邃(あらい おうすい)は、
自分の文章の終りに「我が言ならず」と書くことがありました。
自分で書いた文章なのに「我が言ならず」
自分の言葉でない、
というのはいかにも矛盾ですが、
たとえばモーツァルトが、聴こえてきた音を書き留め曲づくりに励んだように、
奥邃も、
聴こえてきた言葉を書き留めた、
ということだったかもしれません。
わたしは、
そういう感覚を覚えたことはありませんが、
ふと思いついた言葉を書き留め、整序し、届けることで、
予期せぬ言葉をかけていただくことがあり、
あとから考えて、
あの時あの言葉を思いついたのは、
あれはわたしだったのかな、
と不思議に思うことはあります。
言葉を知り、本を読むことで、いのちある言葉が種となって体と心に落ち、
自分でも知らないうちに発芽し、
ハッと気づく、
そんな感じかな。

 

・ここだいま工事現場の空や春  野衾

 

同感

 

私の考では、禪宗は、佛教の思想を主體として、
それに老子・莊子、
特に莊子の風味が加はつて、彼の如き風味の者になつたと思うて居る。
然しそれがおもしろいか、おもしろく無いか、
眞理であるか、眞理で無いかといふ事が最も重要なる問題である。
眞理に叶つて居り、おもしろい者であれば、
それで宜しいのである。
基督教の聖書に就いても、同じやうな事を言ひ得られる。
繫辭傳に就いても、同じわけで、
たとひ孔子の製作で無く、誰の製作であるとしても、
少しも構はぬのである。
(公田連太郎[述]『易經講話 五』明徳出版社、1958年、p.112)

 

易経の「易」は、変移の意であり、
したがって易経は、
変移の理法を説くことを主眼としている。
それは人事に限らず宇宙万般にわたる。
公田連太郎の『易經講話』は、講話とあるとおり、
語ったものをまとめたものであるから、
やたらと繰り返しが多い。
しかし、
このひとは、易というものに心酔しており、
だもんだから、
繰り返しが頻出してもうるさく感じられない。
(たまに感じる)
引用した箇所でも分かるように、
基本的に常体だが、
公田さんがほんとうに重要だと思って語るところは敬体になる。
これがまたなんとも味があって楽しい。

 

・ひがしにし日の移ろいを花菜かな  野衾

 

ん! どいうこと?

 

むかし田原俊彦の歌で『ハッとして!Good』という歌がありましたが。
それと直接関係はありませんが、
ハッとしたことはハッとした。
下の写真がそれ。
「日本火曜市開催中?」
日本…? 日本…?
アッ!!
そうか。
そういうことか。
よく見れば、そういうことなのでした。

 

・暖かや珈琲の香にチェーホフ  野衾

 

 

一週間ほどまえから鶯の声が聴かれるようになりました。
天気予報によれば、
きょうの最高気温の予想は23℃、
五月中旬の陽気だとか。
桜の開花も例年にくらべだいぶ早まっているようだし、
鶯もあわてて鳴きだしたのかもしれません。
まだホーホケキョには至りませんで、
ホーホーとかホーホケぐらい。
それでも鶯の声を聴けば、
気分はすっかり里山で。
小川に清冽な水が流れ、鶏が遊び、子らが飛び出してきます。
いまは朝の五時半ですが、
もう聴こえています。

 

・鶯の来鳴き里山全きかな  野衾

 

世界という散文

 

だから世界の相貌は、紋章、文字、暗号、晦冥な語
――ターナーによれば「象形文字(ヒエログリフ)」――
によって覆われるのである。
かくして直接的類似の空間は、
開かれた大きな書物のようなものとなる。
そこには無数の文字記号(グラフイスム)がひしめきあい、
ページ全体をつうじて、奇妙な形象が交叉し、
ときには反復されるのが見られるのだ。あとはそれらを解読するだけでよい。
(ミシェル・フーコー[著]/渡辺一民・佐々木明[訳]
『〈新装版〉言葉と物 人文科学の考古学』新潮社、2020年、p.51)

 

後漢の許慎(きょしん)の手になる最古の漢字辞典『説文解字』
の成立が西暦100年。
白川静の『漢字の体系』が上梓されたのが2020年。
『漢字の体系』では約1800字について、
すべて『説文解字』の説明と白川さんの説明が対比されており、
漢字が単なる記号を越えて、
漢字そのものが、
漢字成立に至るまでの当時の世界観、宇宙観を表すものであると納得する。
まさに本はタイムマシン。

 

・春泥の足指まつかをぬるりかな  野衾

 

人間になること

 

まことに強制収容所の経験は、
人間を人間の顔をした動物の一種に変えることは事実可能であり、
人間の〈自然〉(本姓)が〈人間的〉であるのは、
きわめて非自然的なもの、
すなわち人間になることが人間に許されている場合のみである
ということを明示している。
(ハンナ・アーレント[著]/大久保和郎・大島かおり[訳]
『新版 全体主義の起原 3 全体主義』みすず書房、2017年、p.270)

 

教育哲学者の林竹二は、
小学生に向かっても、寿町の労働者たちに向かっても、
「人間について」の授業を行う際に、
「蛙の子は蛙、ということわざがありますが、人間の子は人間と言えますか?」
という問いを発した。
蛙の子はオタマジャクシで魚類だから、土の上では生きられない。
それなのに、
成長して蛙になれば、
土の上でも生きられる。
いのちの不思議、神秘に林自身が打たれての質問に、
授業を受けるものはだれもかれも、
こころをわしづかみされた。
わたしは、
授業そのものは受けていなくて、
授業を記録した本で知っただけだが、
それでも、
こころをわしづかみにされたまま現在に至っている。
人間は、
「人間である」ということはなかなか言えない。
人間であろう、人間になろう、
そう思考し意欲するとき、
その過程、途上にあるときに、
かろうじて「人間」とよべる、
のかな?
アーレントの本が突きつけるものは、
ひとことで言えば、
「人間の子は人間と言えますか?」

 

・詩も何も尽くしがたきよ雪解川  野衾