同感

 

私の考では、禪宗は、佛教の思想を主體として、
それに老子・莊子、
特に莊子の風味が加はつて、彼の如き風味の者になつたと思うて居る。
然しそれがおもしろいか、おもしろく無いか、
眞理であるか、眞理で無いかといふ事が最も重要なる問題である。
眞理に叶つて居り、おもしろい者であれば、
それで宜しいのである。
基督教の聖書に就いても、同じやうな事を言ひ得られる。
繫辭傳に就いても、同じわけで、
たとひ孔子の製作で無く、誰の製作であるとしても、
少しも構はぬのである。
(公田連太郎[述]『易經講話 五』明徳出版社、1958年、p.112)

 

易経の「易」は、変移の意であり、
したがって易経は、
変移の理法を説くことを主眼としている。
それは人事に限らず宇宙万般にわたる。
公田連太郎の『易經講話』は、講話とあるとおり、
語ったものをまとめたものであるから、
やたらと繰り返しが多い。
しかし、
このひとは、易というものに心酔しており、
だもんだから、
繰り返しが頻出してもうるさく感じられない。
(たまに感じる)
引用した箇所でも分かるように、
基本的に常体だが、
公田さんがほんとうに重要だと思って語るところは敬体になる。
これがまたなんとも味があって楽しい。

 

・ひがしにし日の移ろいを花菜かな  野衾