人間になること

 

まことに強制収容所の経験は、
人間を人間の顔をした動物の一種に変えることは事実可能であり、
人間の〈自然〉(本姓)が〈人間的〉であるのは、
きわめて非自然的なもの、
すなわち人間になることが人間に許されている場合のみである
ということを明示している。
(ハンナ・アーレント[著]/大久保和郎・大島かおり[訳]
『新版 全体主義の起原 3 全体主義』みすず書房、2017年、p.270)

 

教育哲学者の林竹二は、
小学生に向かっても、寿町の労働者たちに向かっても、
「人間について」の授業を行う際に、
「蛙の子は蛙、ということわざがありますが、人間の子は人間と言えますか?」
という問いを発した。
蛙の子はオタマジャクシで魚類だから、土の上では生きられない。
それなのに、
成長して蛙になれば、
土の上でも生きられる。
いのちの不思議、神秘に林自身が打たれての質問に、
授業を受けるものはだれもかれも、
こころをわしづかみされた。
わたしは、
授業そのものは受けていなくて、
授業を記録した本で知っただけだが、
それでも、
こころをわしづかみにされたまま現在に至っている。
人間は、
「人間である」ということはなかなか言えない。
人間であろう、人間になろう、
そう思考し意欲するとき、
その過程、途上にあるときに、
かろうじて「人間」とよべる、
のかな?
アーレントの本が突きつけるものは、
ひとことで言えば、
「人間の子は人間と言えますか?」

 

・詩も何も尽くしがたきよ雪解川  野衾