キリスト者・新井奥邃(あらい おうすい)は、
自分の文章の終りに「我が言ならず」と書くことがありました。
自分で書いた文章なのに「我が言ならず」
自分の言葉でない、
というのはいかにも矛盾ですが、
たとえばモーツァルトが、聴こえてきた音を書き留め曲づくりに励んだように、
奥邃も、
聴こえてきた言葉を書き留めた、
ということだったかもしれません。
わたしは、
そういう感覚を覚えたことはありませんが、
ふと思いついた言葉を書き留め、整序し、届けることで、
予期せぬ言葉をかけていただくことがあり、
あとから考えて、
あの時あの言葉を思いついたのは、
あれはわたしだったのかな、
と不思議に思うことはあります。
言葉を知り、本を読むことで、いのちある言葉が種となって体と心に落ち、
自分でも知らないうちに発芽し、
ハッと気づく、
そんな感じかな。
・ここだいま工事現場の空や春 野衾