上書きの時代

 

先週金曜日、
都市科学事典』発刊を期し、
出版記念オンライン・シンポジウム
「トランジションシティ 都市をめぐる知の交差」が開催された。
わたしは聞かずじまいだったが、
パネリストのお一人が、都市=エンサイクロペディア、
ということをおっしゃったそうだ。
また「上書き」という言葉が印象にのこったと、
シンポジウムを聞いた者から教えられ、
我が意を得たりの感を深くした。
政治家をはじめ、この頃は、言葉が薄く感じられるようになった。
パソコン、スマホ、ブログ、ツイッター、フェイスブック
が普及したことにより、なにが変ったか。
いろいろな論点があるだろうけれど、
言葉が「上書き」されることがふつうになったことは、
見逃すことのできない重要な点だと思う。
たとえば政治家の発言をテレビで見ていると、
ひとつひとつの発言が、
のちに上書きされる可能性を残しつつなされている
の感が否めない。
小学校で習った5W1H
「Whenいつ」「Whereどこで」「Whoだれが」「What何を」「Whyなぜ」
「Howどのように」
はどこに行ってしまうのだろう。
ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』のなかに、
ヒトラーとスターリンが、
二人とも共通して事実に関心がなかった、
ということが記されている。
嘘を常習とする人間にとっては、
事実はいつでも捏造可能ということなのだろう。
上書きが日常化されてしまえば、
嘘をつくことが横行し、痛みを伴わなくなってしまう。
本を焼くものはやがて人を焼く、
と、かつてハイネは言った。
本を焼く、とはまた、言葉を焼くことだ。
言葉を焼くのは、
その裏付けとなる事実を焼き、歴史を歪めることに繋がる。
そうならないためにも、
5W1Hの基本精神を大切にし、
紙の本で残したい。
紙の本は、事実を後世に残すための、
また、
上書きという捏造を許さぬための紙碑なのだ。

 

・春寒や上り列車の遠ざかる  野衾