いのちあるものにとって歌とは

 

たとえば万葉集3433番

薪伐(たきぎこ) 鎌倉山の 木垂(こだ)る木を 松と汝(な)が言はば

恋ひつつやあらむ

 

『萬葉集釋注 七』のなかで、
伊藤博は、
「薪を伐る鎌、その鎌倉山の、枝のしなう木、この木を松
――待つとさえお前さんが言ってくれたら、こんなに恋い焦がれてばかりいるものかよ」
と訳した後で、
「もともと、伐採作業などの折に、
男たちによってはしゃぎ唱われた歌なのであろう」
と説明している。
民謡のようなものを想像すればいいだろうか。
だとすれば、
これは、
日本におけるいわばブルース、
ってことになるのかもしれない。
もうひとつ想像が及ぶのは、
宮澤賢治の「セロ弾きのゴーシュ」
にでてくるかっこうのことば。
セロを弾くのをやめたゴーシュに向かい、
かっこうが
「なぜやめたんですか。
ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ」
このことばには、
洋の東西、古今を問わず、
にんげんがなぜ歌を詠い、唱い、歌うのか、
いのちあるものにとって
歌とはなにかを端的に物語っているように思う。
万葉集をそうした視点から見たとき、
〈古代の知的な文藝〉の世界を超えて
生の根源をたたえる普遍的なありようを示す千古の表現、
ということになりはしないか。

 

・帰郷終ふ上りホームの寒さかな  野衾

 

天気のごとく

 

いわゆる森田療法を創始した森田正馬(もりた しょうま)に関する本を読むと、
「あるがまま」ということばがたびたび登場します。
シンプルなことばだし、
あるがままといわれれば、
そうですか、
あるがまま、ね、はい、あるがままにやってますよ、
と、
べつに取り立てて問題にするようなことでもない気がします
が、
こんかい、
畑野文夫さんの『森田療法の誕生 森田正馬の生涯と業績』
を再読し、
「あるがまま」が
ことばそのものはシンプルでも、
そのことが指し示す内実は
抜き差しがたく切実で味わい深いものであると感じました。
AIによって人間が取って代わられることが夢物語でなくなった時代にあって、
きのうも天気予報は見事に外れ、
横浜地方は夕刻雨が降ってきました。
天気予報は、
当たることもありますが、今でもよく外れます。
おみくじよりは少しマシ、
でしょうか。
にんげんの喜怒哀楽の感情は、
天気のごとく予測不可能なところがあります。
コントロールが難しい、
もっといえば、不可能に近い。
コントロールが難しいのであれば、
コントロールしようとしないで放っておくしかありません。
そうすると、
いつしか、
これも天気のごとく、変化します。
永久に変わらぬ感情というものはありません。
ある感情にとらわれたとき、
それから逃れたくて
ああでもないこうでもないと考えたり、
逆にプラスの感情であれば永続させたいと願ったりしますが、
感情というのはつねに変化し、
とどまっていません。
怒りがもたげたら怒ったなり、
悲しみにとらわれたら悲しいなり、
喜びも楽しさも長つづきすることはない、
そういうことをどうやら森田は「あるがまま」と称んだようです。
さて3月29日(日)15時から春風社にて、
畑野文夫さんと
『森田療法の誕生 森田正馬の生涯と業績』をテキストに、
対談を行います。
興味のある方はふるってご参加ください。
スペースの関係がございますので、
参加ご希望の方はお早目に電話かメールでお知らせください。
ちなみに森田の名まえは、
辞書を引くと、
「まさたけ」となっているものもありますが、
「しょうま」であることが
畑野さんの本にくわしく丁寧に説明されています。

 

・古時計午前三時の淑気かな  野衾

 

金光寿郎さんを悼む

 

「こころの時代」「宗教の時間」を担当し、
ながくNHKディレクターを務められた金光寿郎(かなみつ としお)さんが
先月十九日に亡くなられました。
インタビュアーとして宗教者に質問しているのを、
なんどかテレビで見たことがありますが、
質問のことばをききながら、
想像するだけですが、
相手の方の周辺をよく勉強されているなと感じたことを
なつかしく思い出します。
その金光さんが新井奥邃に興味関心を持ってくださっており、
ご縁あって
『新井奥邃著作集 第五巻』の月報に
「麓から仰ぐ高い山」というタイトルで文章を書いてくださいました。
奥邃の文章をいくつか引用され、
さいごに
「日本の近代が生んだ偉大な宗教者、
未来の指標となる聳え立つ高山に似た印象を持っている方」
と、奥邃を表現されています。
享年九十二。
ご冥福をお祈りします。

 

・公設の博物館に淑気盈つ  野衾

 

ファンタジーの力

 

ファンタジーは我らの感覚的耳目(じもく)を鎖(とざ)して、
精神的耳目を開いてくれる。
――私が幾度となく学生たちに言ったことであるが、
およそファンタジーなくしては真に人間らしき生存は考えられない。
ファンタジーなき人間にとっては
真なるものも美なるものもまた善なるものも存しないであろう、
何となれば現象界においては、
換言すれば感官的知覚もしくは経験にとっては何一つとして、
それがファンタジーの媒介を経ざる限り、真でも美でもまた善でもないからである。
世界が混沌にあらずしてコスモス〔調和あり秩序ある世界の意〕であり、
また倫理的秩序であることを我らが認識するのは、
ひとりファンタジーの力によるのである。
我らをして真の存在と世界における神の霊の永遠の支配とを認識せしむるものは
実にファンタジーである。
(久保勉訳編『ケーベル博士随筆集』岩波文庫、1928年、p.122)

 

いわゆる「お雇い外国人」として日本に招かれ、
日本の哲学界を初め思想全般にわたって多大の貢献をなし、
影響力のあったひとにラファエル・フォン・ケーベルがいます。
教え子には
安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、九鬼周造、和辻哲郎、波多野精一などがおり、
夏目漱石とも親交があったようです。
哲学の先生ということで厳めしいイメージがありますが、
ファンタジーが好きで、
吸血鬼の話や
アンデルセンのものも読んでいたといいますから、
人柄がしのばれます。

 

・土間闇し山家の朝の淑気かな  野衾