いのちあるものにとって歌とは

 

たとえば万葉集3433番

薪伐(たきぎこ) 鎌倉山の 木垂(こだ)る木を 松と汝(な)が言はば

恋ひつつやあらむ

 

『萬葉集釋注 七』のなかで、
伊藤博は、
「薪を伐る鎌、その鎌倉山の、枝のしなう木、この木を松
――待つとさえお前さんが言ってくれたら、こんなに恋い焦がれてばかりいるものかよ」
と訳した後で、
「もともと、伐採作業などの折に、
男たちによってはしゃぎ唱われた歌なのであろう」
と説明している。
民謡のようなものを想像すればいいだろうか。
だとすれば、
これは、
日本におけるいわばブルース、
ってことになるのかもしれない。
もうひとつ想像が及ぶのは、
宮澤賢治の「セロ弾きのゴーシュ」
にでてくるかっこうのことば。
セロを弾くのをやめたゴーシュに向かい、
かっこうが
「なぜやめたんですか。
ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ」
このことばには、
洋の東西、古今を問わず、
にんげんがなぜ歌を詠い、唱い、歌うのか、
いのちあるものにとって
歌とはなにかを端的に物語っているように思う。
万葉集をそうした視点から見たとき、
〈古代の知的な文藝〉の世界を超えて
生の根源をたたえる普遍的なありようを示す千古の表現、
ということになりはしないか。

 

・帰郷終ふ上りホームの寒さかな  野衾