裏通り

 はなこ豚強(こわ)い毛並みもおぼろなり
 『男はつらいよ』のDVDをまた二本借りて、踏み切りを渡り、国道一号線脇の裏通りをしばらく歩いた。
 昼、越後製菓の「ふんわり名人」を食いながら歩いていたら、小料理千成の女将さんにばったり会い、袋から一個取り出し女将さんの口へ放り込んだのもこの通りだった。「どうです? 美味しいでしょう!」女将さん、目を白黒させて、「うん、うん」と返事をした。
 中華料理店の裏手を左に見、小造りの家を二軒ほど遣り過ごすと、沈丁花の香りがフッと鼻を掠めた。暗闇に白い花弁がぼーと浮かんでいる。
 ほんの数分のことながら、気分も落ち着き、左へ折れて再び国道沿いの道に出た。
 春眠の瞼を指で離しけり

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三つのこと

 イライラの捌け口の無し春うらら
 わかること、いやすこと、つくること。人の世のいとなみで大切なことはこの三つと、どこかで習った記憶がありますが、このごろの楽しみの一つである『男はつらいよ』のDVD鑑賞は、その「わかること」、とりわけ人の気持ちが分かることが生きていくうえで、いかに大事か、また切ないことかを痛いほど分からせてくれます。
 気持ちが分かっていれば仲良くできるかといえば、決してそうではなく、気持ちが分かるからこそ、喧嘩をしてみたり、すれ違いが生じたりします。
 寅さんと寅さんを取り巻く人々の織り成す人間模様を見ていると、人の気持ちが分かることも、ほどほどがいいのかなと思えてきます。
 もとより、自分でさえ自分の気持ちを百パーセント分かっているかといえば、心もとないですからね。
 きのうは、『男はつらいよ 寅次郎恋歌』でした。マドンナは池内淳子さん。
 春の床時計ばかりを気にしている

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はなこツアー

 校正日和前面の蜘蛛背(せな)の春
 久保山のお寺に住んでいるという黒豚はなこを見に、日曜日、散歩がてら出掛けました。
 いましたいました。世話するおじさんは、しょっちゅう、「はなこ。はなこ。はなこ。はなこ。……」
 どこへ行くの、この毛布の上にちゃんと座っていなさい、ほら、お客さんがお前にリンゴをくださるって、ありがたいね、ちゃんとお礼を言わなきゃダメだよ、そうそう、お利口さんだね、写真を撮ってくださるそうだから黙ってポーズをとらないと、そっち行っちゃダメだって、ほれ、こっちこっち、うん、そうだよ、へへ、ほら、おいらの上に乗ってごらん、芸をみせてあげなよ、まず足でしょ、そっちじゃなくこっちの足から、上手上手、……
 そういう意味を含んだ呼びかけを、おじさんはほとんど「はなこ」だけで、上手に区別して使い分けます。見事なものです。
 それに対して、はなこはというと、ブヒブヒブヒブヒ、ブヒブヒ、ブヒブヒ、ブヒ。ブヒブヒブヒブヒブヒブヒ。よく聞くと、これも、なんともいえない微妙なニュアンスを含んでいて、実に味わい深い。
 愛されると、豚もこんなふうな姿態をみせてくれるのかと感心しました。はなこは、とても角煮にはできません。
 春風や媚びる笑ひを叱りけり

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湯気を切り取る

 ぽかぽかと春日曜の散歩かな
 たとえば、ラーメンから立ちのぼる湯気。それがちゃんと写っているかどうかで、写真の印象はずいぶん違います。
 それがバチッと捉えられていれば、その写真が撮られた時間まで豊かなものだったのだろうと想像が掻き立てられます。
 実際の暮らしの場面では、一瞬たりとも時間が停止することはありません。だから、見ているようで見ていないものがたくさんあります。(それはそれでいいとは思います)
 写真は、停まらない時間を静止画で見せることで、普段見過ごしているものの価値を思い出させてくれます。
 真実は人の数だけ春燦燦

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トモ爺

 垣根越し見上ぐ子らにも梅の花
 夢にトモ爺が現れた! 百歳で亡くなったわたしの祖父です。
 わたしは自分の席にいてパソコンを睨んでいました。ふと視線を入り口のほうに移すと、コピー機の横に立ち、なにやらコピーを取っているようでした。わたしを見て、ニカッと笑いました。ニカッ!!
 わたしは一瞬で、普段どんなに嬉しくても、それほどでもないのに、針が振り切れるほど嬉しくなりました。わたしはトモ爺が大好きです。
 わたしのそばまで来たので、すこし話をしました。あいさつに来た独身の女性社員をつかまえ、あと十五歳若かったらなぁ、と、調子のいいことを言って笑わせていました。
 あの弾けるような喜びを味わったのは、久しぶりです。トモ爺とリヱ婆がいなくなったことで、見るもの聞くもの全ての色調が変ってしまったことを改めて、思い知らされました。
 路地裏の梅がほころんだほころんだ

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遠藤の青汁

 捨てられし銀杏拾ふ夕餉かな
 朝、桜木町駅前にあるそば屋で青汁を買うようになってから二年ほど経つ。
 出勤前のサラリーマンがコップ一杯の青汁をグイと飲み、改札へ向かう光景をよく眼にする。
 わたしは400ccの青汁を持参のペットボトルに入れてもらい、出社後小1時間してから飲む。
 遠藤の青汁の本社は高知県だから、全国展開の現状を考えれば、各地に工場があるのだろう。
 あるとき、気になって、青汁を売ってくれるおばさんに、「この青汁は、どこで作られているのですか」と質問してみた。するとおばさん間髪入れずに、あなたそんなことも知らないの的な眼差しをわたしに向け、ひとこと「工場で」と答えた。そう言った後も、手を休めず仕事をしながらギロリ、まだわたしのほうを見ている。よほど変な質問をする人だと思ったのだろう。
 そう。青汁は、工場で作られる!
 鼻ひろげ我れは杉の子無花粉症

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気功の「功」

 捨てられし銀杏二百五十粒
 白川静『字統』の「功」の説明のなかに、「宋のころより年間を通じて日々に所業の善悪を記録する風が起り、功過格という。道教では、その成績によって人の禍福や夭寿が定められるという信仰があった」とある。夭寿(ようじゅ)とは、短命と長命のこと。
 気功には道教系のものも流れ込んでいるという。即効性はないけれど、日々の練習が大事であることが、「功」の字の由来からも確認できる。
 こころにも無いこと言うなよアメフラシ

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