天のこと

 飯島耕一さんの近著『漱石の<明>、漱石の<暗>』を四分の三ほど読んだ頃、BGMにかけていたアメリカ50、60年代のオールドポップスに誘われてか、うとうとし、読み掛けのページに栞をはさんで、昼の布団にもぐり込んだ。西式健康法の創始者・西勝造氏が提唱された平床寝台に興味を持ち、トーキューハンズに頼んでおいた厚さ三センチ、畳一畳分の板(重くて持ち上がらず、うんとこせっとこ引きずって寝床まで運んだ)が、午前中の配送すれすれの時刻に届き、それを敷いてあったのだ。そこに体を横たえた。二時間、いや、三時間、何のこれっぽっちの夢を見ることもなく、板なのに、それほど痛くもなく目が覚めたことがうれしくて、案外ぽかぽかと背中が温く、むっくりと起きだし、あとは、残り四分の一ほどを一気に読み切った。「明」は天、「暗」は人、と受けとってもらってもいい、と飯島さんは「あとがき」に書いてある。天はどこにある。表紙写真の漱石の顔は、これまでいろいろな場所で見知ってきた顔とは違う<暗>のそれ、人の顔だ。
 今年七月に刊行された同じく飯島さんの『白紵歌(はくちょか)』の最後にこんな文章があったことを不意に思い出した。
 翌朝、目覚めた時、西野鶴吉君は妙なことを考えた。「ひょっとして天は今寝ているベッドの下にあるのかも知れない。そのせいで背中のあたりが温いのかも知れない。ひょっとして天はおれの靴の中にさえあるかも知れん。天空は胎児にとっての子宮なのかも知れん」。そう思うと鶴吉君はもう一度こころよい眠りに落ちたのである。