富士山を救え

 グラウンドワーク三島の渡辺さん来社。「富士山を世界遺産へ」という運動がにわかに高まっている中、渡辺さんが『富士山を救え』(仮)の題で本を書くことになった。
 なぜ渡辺さんが、ということについて若干説明すると、渡辺さんは自分の住んでいる静岡県三島の町を、仲間と共に二十年かけて美しくしてきた。というよりも、もともとあった三島の美しさを取り戻す運動を展開してきた。その結果、「水の都」と詠われた三島はみごとによみがえった。なぜ三島が水の都かといえば、富士山に降った雨が地下にもぐり、膨大な時間をかけて大地を潤し、それが三島の町のあちこちに湧き出る。水の都と呼ばれるゆえんだ。
 三島の町の美しさを取り戻すことには成功した。ところで、恩恵をこうむっている本家の富士山そのものはどうなのだ。ゴミが捨てられ、アンモニア臭のする汚れた富士。日本に冠たる富士山がこのままでいいはずはない。三島の次は富士山だ! というのは、だから、地下水でつながっているような、いわばごく自然に出てきた運動で、その著者として渡辺さんは最も相応しい。足下を見据えた運動がじわりじわりと広がる。その展開の仕方が、梁山泊に集う兵どものようであって、話を聞いいているだけでワクワクしてくる。
 さて来年は富士山の年になる。グラウンドワークとは、そも何ぞ、という方はこちらを。

GHOST WORLD

 小社の愛ちゃんが紹介していた『GHOST WORLD』を、愛ちゃんからDVDを借りて観た。高校を卒業したての親友、イーニドとレベッカが主人公で、ある日、二人がモテないレコードマニアの中年男シーモア(スティーヴ・ブシェミ)に出会うあたりから物語が動いていく。
 イーニド演じるソーラ・バーチがとても可愛く、ふくれっ面、泣いている顔、物思いに耽っている顔、いたずらっ子のような顔、どれも可愛い。いろんな顔をしながら、こころでは拠り所を探しているのだろう。シーモアに惹かれていくのも、一見ダサくても、彼がちゃんと生きているように見えたからだろうし、いつ来るとも分からないバスを待ち、いつも停留所の長椅子に座っている老人もイーニドにはちゃんとしているように見えたのだろう。
 物語の最後のほう、来ないバスを待っているだけの“呆け老人”に見えた男の前にバスが現れ、男はバスに乗り、去っていく。イーニドも、男がいた場所に佇んでいると、誰も客が乗っていないバスがやってきてそれに乗り込む。さて、どこへ向かうバスなのか。
 ということで、中年真っ盛りのわたしは、女の子って、こういうところあるなぁ、疲れんだなぁ、でも可愛いなぁと思いながら、鼻の下をビロ〜ンと伸ばし、楽しんで観た。それから、レコードマニアのシーモアも、バスを待つ老人も、ちゃんとしているようで、いくつになっても、こころの拠り所は、きっとないのだろうとも思われた。

部屋

 外から帰ってきて、部屋の明かりをつけ、エアコンのスイッチを入れるたびに思うのだが、部屋全体から醸し出される親和度といったものが、日によって違う。自分の部屋で、自分の好みのものに囲まれ、自分の好みでレイアウトしているにもかかわらずだ。こちらの体調によるのだろう。CDの棚から適当に1枚取り出し、かけてみたら、思いのほかその時の気分にマッチし、少しだけ浮き浮きすることもある。きのうがそうだった。調子に乗って、もう1枚かけているうちに眠ってしまったようだ。

オリジナリティー

 先日、ウチを担当してもらっている税理士の先生と話をしていて、おもしろい(社長を始め社員たちの日々の努力はすさまじいものだろうとは思うが)商売を業としている会社の話を聞いた。伸びているらしい。
 その会社、いろんな製造工場で使う機械の錆び止め、磨耗止めの油を独自に研究開発し商品化、販売している。
 驚くのは、A工場ならA工場で使う機械のためだけに研究開発をする。おおむね、工場で使う機械というのは高価なものが多く、なるべく長持ちさせたいというのが経営者の本音だろう。市販されている機械油よりも数段すぐれているとなれば、そっちの油を使うに違いない。にしても、新規のお客さん(工場)を獲得するのに一年はかかるという。一年かかっても、その油がじぶんところの機械の損耗を防ぐのに最適となれば、もう絶対に他の油は使わない(だろう…)。
 なるほどねぇ。誰もが使い、誰にでも通用する便利な商品を大量生産し大量販売するということもあろうが、むしろ、数は少なくても絶対に必要なものを生産し販売するという仕事もある。参考になった。

『北上川』増刷

 自分で編集しておいて言うのもなんだが、こんなに売れるとは思わなかった。まして、増刷するなんて…。
 小社で写真集を出すのは、『九十九里浜』『東大全共闘』に次いで3冊目になるが、考えてみれば、3冊ともに一世一代のものばかり。それが読む人のこころを打ったのだろう。
 いまは、デジタルカメラ流行りだし、気の利いた写真がネットに溢れている。気の利いた写真が悪いわけではないし、ほのぼのと和ませられたり、日常を切りとって、こんな風にも見せられるものかと驚かせられもする。愛情の示し方が変わったのだろう。が、上記の写真集に収録された写真群は、<気の利いた>写真ではない。しつこく、粘りづよく、深い愛情をストレートに、膨大な人生の時間をかけて撮ったものばかりだ。
 写真集が一人歩きし、みなさんに評価されることは編集者冥利、出版人冥利に尽きるが、ただ一つ、この仕事において、やりのこしていることがある。ロシアの映画監督ソクーロフさんに、この写真集を届けることだ。ソクーロフさんがこの写真集をどう見てくれるのか。きっと響き合うものがあるに違いない。ぜひ感想を聞いてみたいのだ。

竹内レッスン

 竹内敏晴さん来社。編集担当の若頭ナイトウ、装丁担当の多聞君も加わって、本のコンセプトについていろいろ意見を交わす。
 わたしは、この本に「竹内レッスン」という名を冠することと、ライブということにこだわっている。竹内さんがやってこられたこと、今やっておられることの亜流のようなものをよく目にし、耳にするからだ。竹内さんのは全然違う、という感じと意識がわたしにはある。それと、ライブ。
 学校でも塾(行ったことも見たこともないので想像でしかないが)でも、どこでも、まずは最も簡単なAをして、それを終えたらBにかかり、それもクリアしたらCにかかる。はい、よく出来ました、となる(のではなかろうか)。何かをおぼえ、何かをするのに役に立つための方式というのは概略そういったものだろう。竹内レッスンは違う。単純に言って、竹内レッスンは何かの役に立つか。何か有効性をもちうるかというと、レッスンに参加したそれぞれが結果的に、今まで他では気付きもしなかったことが、レッスンに参加したおかげで気づいた、というようなことはあるかもしれない。(そして、それは、その人のその後の人生にとってとても重要なことだったりする。)が、参加すれば、ぴかぴか光る資格が与えられたり、こんな難しい数式をアクロバット的に難なく解けるようになりますよ、なんてことはまずない。だいたい、そんなところに竹内さんは立っていない(と思う)。
 竹内レッスンは、1回1回だ。1回こっきり。その場で(ほかのどんな社会的な場とも違って)どう生き切るかということに竹内さんはかけ、場も、そういうふうに集中していく。竹内レッスンでは、こんなことをやりますよう、と、望遠鏡でも覗くようにして、やってることを言葉であらく説明することは出来ても、現場で起こっていることは全く違うということは多いのではないか。
 そんなことを考えると、今用意しているこの本、本にならないことを本にしようという、無謀な行為かもしれない。でも、そのせめぎ合いが大事なんだと思うし、これを本にするなら、それぐらいの気概がないとダメだろう。

寒気団

 ここ数日で急に寒くなり、各地で記録的な雪を降らせているようだ。寒い季節に寒い土地で生まれたわたしは、雪は好きだが、寒さが苦手で、いつも着膨れして歩いている。きょうも相当寒いらしい。
 以前、新聞で読んで大笑いしたことがあった。「シベリア寒気団」という言葉があるが、これをサーカスの一座(たとえば、ボリショイ・サーカス)と勘違いして憶えていた人がいたというのだ。ほんまかいなとも思ったが、語呂から言ったら、いかにも強そう、凄そうで、いかにもこいつには勝てない気がしてくる。