竹内レッスン

 竹内敏晴さん来社。編集担当の若頭ナイトウ、装丁担当の多聞君も加わって、本のコンセプトについていろいろ意見を交わす。
 わたしは、この本に「竹内レッスン」という名を冠することと、ライブということにこだわっている。竹内さんがやってこられたこと、今やっておられることの亜流のようなものをよく目にし、耳にするからだ。竹内さんのは全然違う、という感じと意識がわたしにはある。それと、ライブ。
 学校でも塾(行ったことも見たこともないので想像でしかないが)でも、どこでも、まずは最も簡単なAをして、それを終えたらBにかかり、それもクリアしたらCにかかる。はい、よく出来ました、となる(のではなかろうか)。何かをおぼえ、何かをするのに役に立つための方式というのは概略そういったものだろう。竹内レッスンは違う。単純に言って、竹内レッスンは何かの役に立つか。何か有効性をもちうるかというと、レッスンに参加したそれぞれが結果的に、今まで他では気付きもしなかったことが、レッスンに参加したおかげで気づいた、というようなことはあるかもしれない。(そして、それは、その人のその後の人生にとってとても重要なことだったりする。)が、参加すれば、ぴかぴか光る資格が与えられたり、こんな難しい数式をアクロバット的に難なく解けるようになりますよ、なんてことはまずない。だいたい、そんなところに竹内さんは立っていない(と思う)。
 竹内レッスンは、1回1回だ。1回こっきり。その場で(ほかのどんな社会的な場とも違って)どう生き切るかということに竹内さんはかけ、場も、そういうふうに集中していく。竹内レッスンでは、こんなことをやりますよう、と、望遠鏡でも覗くようにして、やってることを言葉であらく説明することは出来ても、現場で起こっていることは全く違うということは多いのではないか。
 そんなことを考えると、今用意しているこの本、本にならないことを本にしようという、無謀な行為かもしれない。でも、そのせめぎ合いが大事なんだと思うし、これを本にするなら、それぐらいの気概がないとダメだろう。