『悲しい本』

 変わったタイトルの絵本だ。
 日曜日、二十年前からたまに行く本屋さん(あの頃は息子がまだ小さく、クルマを道路の脇に停め、肩車をして本屋に通ったものだ。息子は、ほかの子と同じように肩車が好きだった)に入ったら、入口近くの「最近出た本」のコーナーに三冊、置かれてあった。
 谷川さんが訳しているから手に取ったのかもしれない。変わったタイトルの絵本だからかもしれない。ちょっぴり悲しい気分だったからかもしれない。三つ合わさって、だったかもしれない。
 1ページ目を開いたら、眼がぐりっとした、ひげもじゃの男がニカーッと笑っている絵が描いてある。どうしたのだろうと思ったら、下にこうある。
「これは悲しんでいる私だ。/この絵では、幸せそうに見えるかもしれない。/じつは、悲しいのだが、幸せなふりをしているのだ。/悲しく見えると、ひとに好かれないのではないかと思って/そうしているのだ。」
 そうか、そういうことか。
 絵本だからすぐ読める。でも、ここに描かれた悲しみはそう簡単には読めない。絵本を読んで気づかされるのはむしろ自分の悲しみ。カネやオンナに溺れるということがあるけれど、悲しみに溺れることもある。歳をとるにつれ、そのほうが多くなった気もする。深く大きな悲しみには太刀打ちできない、溺れるのが関の山だ。でも、たまには、絵本の中の男がするような仕方で、じっと、自分の悲しみをみつめるのはどうだろう。それしかないかなと思えてくる。今流行りの喫茶店でおしゃべりしている男たちだって、自分の悲しみまではしゃべっていないのだろう。しゃべる言葉をみつけるのはむずかしそうだし、そもそも名付けられない悲しみもあるはずだから。
 変わったタイトルの本だけど、いい絵本だと思った。

『オールド・ボーイ』の原作と映画

 原作よりも面白いと評判の映画『オールド・ボーイ』を観て来た。
 原作も映画も、主人公が、理由を知らされずに長く(原作では10年、映画では15年)監禁されることは同じだが、物語のテーマは大きく異なっている。これから観る人のために、それに触れることは差し控えなければならないが、ありきたりだけれど、別物と思って観ていいのではないかと思った。
 映画は2時間近く、ぐいぐい引っ張っていくから、やはり、よくできた映画だと思った。観終わって映画館を出た時、それまで疲れていた体も頭もシャキッとしたし。
 だが、原作では現代日本の東京が舞台になっていること、映画では韓国の都市(ソウル?)が舞台になっていることで、物語はおのずと違ってくる。
 映画では、監禁する側(イ・ウジン)もされる側(オ・デス)も、少年時代は、ちょっと変わったところがあっても(ウジンは写真が趣味の大人しそうな少年、オ・デスは少々ワル)、それほどではなく、どこにでも居そうなごく普通の少年として描かれている。かつて教室で起きたある事件(?)に関わっていなければ、監禁は起きなかっただろう。そのように映画は進むし、リアリティーもある。
 ところが原作では、監禁する側(柿沼)もされる側(五島)も、いわばモンスターだ。柿沼が冷酷無比なそれであれば、五島は、今の日本にこんな男いるのかよと思うぐらいのヒューマニスティックなそれ、二人とも現実世界にはあり得ぬぐらいの。つまり、監禁という事実を、映画では現実世界で起こり得るものとして描くために、重い事実を過去に設定せざるを得なかっただろうのに対し、原作では逆に、そんなことで10年も監禁するかよと思うぐらいに結末がショボい。小学校時代のそんなことを恨みに思って誘拐監禁してしまうなんてことがあってたまるか、と。しかし、そのショボさを補填しているのが二人の性格描写だ。また、そういうモンスターを生じさせてしまう何かが今の東京にあるということかもしれないが。
 それと、これは『オールド・ボーイ』に限らずだが、漫画には漫画特有の空気感とでもいったものがある。たとえば『オールド・ボーイ』の原作なら、不気味な柿沼を丁寧に描いてきて、ある時、柿沼が所有する船(柿沼は信じられないぐらいの大富豪になっている)の上、デッキチェアで寛ぐ柿沼を遠景で描いておいて、それから徐々にアップで描けば、吹き出しがなくても、あの不気味な表情(柿沼は生まれつき異様に鼻がデカい!)の裏にあるものを読者はいろいろ想像してしまう。その想像が楽しい。
 ということで、映画も原作も、ぼくとしては両方★★★★★だ。

カレンダー

 来年のカレンダーと手帳を買うのが年末のひそかな楽しみ。
 手帳は例年のごとく、高橋の手帳No.78で、特に問題なし。問題はカレンダーのほうで、大きく外してしまった。小さく写った表紙写真をネットで見て判断したのがいけなかったのだ。
 宅急便が会社に届いたら、皆、仕事の手を休め、ぞろぞろと集まってきて(だいたい、なんでそんなに集まって来んだよ)、見せてください、見せてください、ねえ、ねえ、見せてよ、シャチョー、ねえってばあ…。
 ああ、悔やまれる、見せなければよかった。自分ひとりで失敗を飲みこんでいればよかったものを、社員思いのこころが徒となり、つい、見せてしまった。
 そうしたら、若頭ナイトウは両手の人差し指を交差させ、バツ、バツ、バツだし、たがおは言下に「これ、ダメでしょ!」(一刀両断!)、愛ちゃんはケラケラケラケラ笑うばかり(涙まで流さなくったっていいじゃない)だし、武家屋敷は憐れむような目でわたしを見ている(これ、結構こたえた)し、もう、おれイジけた、完璧イジけたよ。
 家に持って帰り、ひとり静かに、このカレンダーに対面しながら、このカレンダーのいいところをどこか見つけようとしたのだが、無駄、無駄でした。でも、あんなに皆に悪く言われると、捨てて、代わりのを買うのもなんだか気がひけるしさ。あーあ。

頼み方

 仕事のことでなく、蕎麦、うどん。
 JR桜木町駅を出てすぐのところにある立ち食い蕎麦屋・川村屋は「おつゆにこだわっている」んだそうだ。店内、あちこちにそう書いてある。アピールするだけのことはあり、実際に、おつゆが美味い。
 そういう川村屋なので、いつも客でごった返している。ぼくは、「トリ肉ワカメうどん」をよく頼むのだが、以前、たがおと二人、渋谷まで出かける際に店に入り、例の如く、「トリ肉ワカメうどん」を頼んだ。そうしたら「トリ肉ワカメ蕎麦」が出てきた。ま、いっか、で、そのときは不平も言わず、黙って食べた。
 が、その問題をずっと考えてきて、また、店で働くオバちゃんたちを見てきて、あることに気がついた。
 たとえば、ぼくが、「トリ肉ワカメうどん」を頼んだとする。トリ肉はひとり分ずつ小鉢に入れてあり、それをまず用意する。えーと、トリ肉だけじゃなく、確かお客さんワカメもって言ったな(「トリ肉ワカメうどん」を頼まれたオバちゃんのこころの声)、そういう情報が錯綜しているうちに、うどんを頼まれたことを忘れる。無意識のうちに、比率的に多く頼まれる蕎麦のほうを金網のざるに入れ、湯に突っ込む。それがどうも「トリ肉ワカメうどん」を頼んだのに「トリ肉ワカメ蕎麦」が出てきた原因だったようだ。
 また、さらに重要なポイントは、蕎麦にしろ、うどんにしろ、茹でる時間は絶対的に掛かるから、オバちゃんたちにしてみれば、天ぷらだとか玉子だとかトリ肉だとかワカメだとかを言う前に、まず、蕎麦かうどんかを伝えて欲しいところだろう。蕎麦ですか? うどんですか? と、運動会のマラソンで先頭きって走っていた少年が、踏み切りで足止めを食らい遮断機が上がるのを足踏みしながら待つような、きっと、そんな気分に違いない。
 そこで、わたしは提案したい。立ち食い蕎麦屋で蕎麦かうどんを食う時には、修飾的なものを言う前に、まず、蕎麦かうどんのどちらかを告げること。オバちゃんたちの行動順序を踏まえ、オバちゃんたちが絶対に間違わないような頼み方を、こちらがすればよいのだ。以下はその参考例。
 「ごめんください」
 「はい、なんにいたしましょう」
 「うどん」
 「うどん、ね。うどん、と」(ここで、オバちゃん、うどんを金網のざるに入れ、湯に突っ込む。オバちゃん、安心)
 「何かお入れしますか?」
 「トリ肉とワカメ」
 「はい。トリ肉とワカメね」
 完璧! 間違いなく「トリ肉ワカメうどん」が目の前に供されることになる。合いの手の要領で、次の行動を促すタイミングで頼むことが肝要だ。以来、わたしは常にそのような頼み方をしている。
 「うどん」
 「うどん、ね。うどん、と」(ここで、オバちゃん、うどんを金網のざるに入れ、湯に突っ込む。オバちゃん、安心)
 「何かお入れしますか?」
 「天ぷら」
 パーフェクト!
 昨日、またまた、たがおと渋谷に行く用事があったので、川村屋で腹ごしらえをしてから電車に乗ることにした。道々、わたしの発見を厳かにたがおに伝え、川村屋に向かう。
 昼近くのこととて、店内は、さらにごった返している。わたしはいつもの要領で、「うどん」「うどん、ね。うどん、と。何かお入れしますか?」「トリ肉とワカメ」。次にたがお。「蕎麦」「お蕎麦ね。お蕎麦、と。何かお入れしますか?」「天ぷらと玉子」。たがおは、わたしの教えを忠実に守り、難なく「天ぷら玉子蕎麦」をゲット。二人とも、つゆを最後まで飲んだのは言うまでもない。めでたしめでたし。

夢よ叫べ

 美味いものを食べて気の置けない人と酒を飲み、二日酔いにならぬ程度に酒を飲み、歌など歌って陽気にはしゃぐのが一番楽しい。
 昨夜もそのような夜でした。三橋美智也に始まりサザン・オールスターズに終わる。「ホテル・パシフィック」を思いっきり、声が裏返るぐらいに叫び歌うのが好き。久しぶりに会うミキコにアキコもノリノリで、ミキコは腰ふりふりで、なんだかとっても可愛いぐらい。
 朝起きて、遠藤賢司の「夢よ叫べ」を聴いた。聴いているうちに、頬の裏に虫でも居るのかモゴモゴし出し涙まで出てきた。そんな夜に負けるな友よ、か。負けそうになる時もあるよ。センチな気分になって3回聴いた。滂沱ダーと涙が流れ、酒も落ち、滝も落ち、スッキリとした。

お線香

 先日、多聞君とたがおも出演した口琴ライブを聴きに行ってきた。
 保土ヶ谷橋の交差点、改装したラヤ・サクラヤさんの、大きなかまくらのような部屋には、演奏者と客席のあいだに何本ものロウソクが灯り、幻想的な雰囲気がかもし出されていた。眼を閉じて聴いていると、これまでに訪れた土地の風景ばかりでなく、まだ見ぬ土地の山や木々までもが瞼に浮かんだ。
 演奏途中でこっそり眼を開けると、そうかここは横浜か、と現実に引き戻されたが、眼を閉じればまた夢に戻れるようで、閉じたり開けたりして遊んだ。
 さて、そのライブの報告を多聞君が書いているが、多聞君がアガリ症とは知らなかった。というか、彼はそういうこととは無縁の人かと思っていた。初めて会う人に取り囲まれ質問されても、淡々と自分の考えを的確に言葉にできるし、また、聞いていてなるほどと思える話をするから、凄いなあ、俺の若い頃と全然違うなあと思ってきた。でも、本人にしてみれば、そうではなかったということかも知れない。
 ぼくがこれまでの人生で一番アガッたのは、中学二年生の時。生徒全員から恐れられていた教頭先生(宿題を忘れて来たり、授業中ちょっとでもうるさくすると、生徒の耳を引っ張った)が病気で亡くなり、ぼくは生徒代表ということで葬儀に出席。祖父母がまだ元気な頃で、ぼくは、そんな大きな葬儀に出たことがなかったから、何をどうしたらいいのか、さっぱり見当がつかなかい。緊張しながらゆっくり弔辞を読んだまでは良かったが、それであまりに安堵したためか、はたまた、一挙手一投足が会葬者の目に晒され、自分の体が自分でなくなっていたせいなのかは定かならねど、とんでもない失態を犯してしまった。
 お線香に火を点け、フッと息を吹きかけ、消した。あ、これはこうするんじゃなくて、手のひらでササッと煽いで消すんだったな、ちょっぴり焦った。それがイケなかった。
 動揺したものだから、お線香の煙が出ているほうの先をグワッと灰に突っ込んだ。哀れお線香はただの長い爪楊枝と化し煙がプスと出ただけで、後は、うんともすんとも。前を見たら、遺影の中で恐い教頭先生は意外にも笑っていたが、よく見ると、目が笑っていない。もうぼくは教頭先生に耳を引っ張られたような気がして、ボッボと両耳を熱くした。
 アガる、どもる、緊張する、赤面する、などの話を聞くと、ぼくはいつもあの時のお線香を思い出す。

エレベーター

 小社から本を出すことになっているTさんがふらりと会社を訪れた。Tさんがわざわざ訪ねて来てくれたことが嬉しくて、また、Tさんはとても話が上手だから、わたしは調子に乗ってべらべらしゃべりまくり、あらぬ方向へ走っていくようだった。
 「そろそろ帰るわ」とTさんはサッと手を上げ、コートを羽織り部屋を出た。わたしは玄関まで見送るつもりで後を追いかけた。Tさんは足早に廊下をぐるりと回り、エレベーターの前まで行きボタンを押す。こんな所にエレベーターがあるなんて今日の今日まで知らなかった。
 やがて扉が開き、中へ乗りこむと、TさんはなぜかB2のボタンを押した。Tさんは相変わらず機関銃のように喋っている。喋りながら、ふと、エレベーターの窓から覗く瓦礫の山に目をやり「納豆とカレーの臭いがする」と、鼻の横に皺をつくった。戦後から何だとかとも呟いたようだったが、それが何を意味するのか、わたしには皆目検討がつかない。瓦礫の山を見て、このあたりの街の変化に思いをいたしているのかなと思った。
 それにしても、Tさんがさっき口にした納豆とカレーの臭いとはなんだろう。そんなこと思ったこともない。でも、なんだか、エレベーターの壁まで納豆とカレーで塗りこめられ、ほんの僅かながら、二つが混交した変な臭いが箱内の空気を歪めているような気がした。
 エレベーターを降りたTさんは、またサッと手を上げ、「じゃ、ここで」と言った。笑顔で、いつものTさんらしく格好良かったけれど、これ以上ついて来るなの厳しさを含んでいたから、その場でお辞儀するだけにした。なぜB2でエレベーターを降りたのか未だにわからない。
 Tさんを見送った後わたしは会社へ戻ろうとした。でも、納豆とカレーの臭いのするエレベーターは、なんだか嫌だなと思い、階段で3階まで行くことにする。ここは地下2階だから、合わせて5階分上らなければならない。少し時間が掛かりすぎているような気がして、一段飛ばしで階段を上り、それから走った。
 廊下を走りながら窓の外を見たら、風景が斜めに移動して行くから、このビル全体がエレベーターのようで怖くなる。
 走りに走っているうちに、ビルはどんどん変化して行く。「ここは……になるそうよ」と、買物帰りだろうか、中年の女性が連れ立って歩きながら、近くのエレベーターに乗りこんだ。わたしは、危険な気がしてそれには乗らずにまた走る。
 本を拾った。中にいろいろ書き込みがあり、巻末に図書館のカードが挟んであった。この建物内に図書館などあったろうか? わたしはだんだん焦ってくる。走ったことが功を奏し、なんとか地下から抜け出せたものの、このビルはどう見ても地上2階までしかない。建物の端はどこも朽ちて崩れている。
 Tさんを少し怨む気持ちがもたげてくる。納豆とカレーの臭いがする、なんて言ったからだ。それを口にしたことがそもそもの始まり。返さなければいけない本まで拾い、わたしは途方に暮れていた。
 でも、納豆とカレーでチーズだからいいのか、と、ちょっぴり思ったのも事実。