好物

 母は、外国人の背が高いのはチョコレートを食べているからだと信じ、そのため、わたしも弟も子供の頃からチョコレートを食べて育った。その甲斐あって、ふたりとも身長が180センチを越える大男になった、と、もしそうなれば、母の自信は確信へと変わったろうが、実際はそうならなかった。わたしも弟も普通より小さいほうだ。それでも母はチョコレートと身長の相関関係への信仰を今も捨ててはいないだろう。
 身長には影響しなかったが、母のおかげでチョコレートは大の好物になった。弟はどうだろうか。ふたり同じものをもらい、わたしが先に食べ、弟が隠しておきそうなところへ行くと決まって大事に残していたから、弟もそれなりに好きだったのだろう。
 それはともかく、ずーっとチョコレートが好きで、前の勤め先では昼の休憩時間に傍のパチンコ屋へ行き小金をせしめればチョコレートと交換するほど好きだったのに、このごろはそんなに食べなくなった。代わりにアイスクリームを食べるようになった。ハーゲンダッツ、ちょいと値が張るけれど美味いね、アレは。「爽」もがんばっている。布団の上にあぐらをかき、好きなテレビを見ながらアイスクリームを食う、これ最高。ただ、こぼさないように注意しなければならない。

利き手

 わたしは両利きである。手のことだ。箸を持つ手は右、鉛筆は右、りんごの皮むきは右、野球は右打ち。そうすると、なんだ右利きじゃねえかとも思うが、必ずしもそうとばかりも言えない。なぜなら、消しゴムは左、包丁で果物の皮を向くのは右だが、野菜の千切りや微塵切りは左、野球のボールは左で投げる。腕相撲は圧倒的に左が強い。だから‘両利き’とは言っても、ひとつの作業を右と左両方同じようにできるわけではない。必ずどちらかの手が利き手であり、やってみて初めて利き手がどっちか気づく。親知らずが五本あることと手が両利きであることをもって、わたしは自分が進化しきっていないと見る。
 それはともかく、要するに、細かいテクニカルな作業は右、力仕事は左、というふうに分業ができているようなのだ。子供のころ頃矯正された記憶はないし、親に訊いてもそんなことはないという。
 今回、左の鎖骨を骨折したことにより普段意識してなかったことを意識する場面が多いが、髭剃りもその一つ。
 怪我をしているからといって不精髭を伸ばし放題というのもどうかと思い、洗面台にお湯を張り、シェービングクリームを顔に塗りたくり、ジレットの3枚刃を右手に持って静かに顔にあてた。鏡を見ながら剃り残しがないようにゆっくり時間をかけてやったのだが、どうも要領を得ない。はて、としばし考えたが、いつもは左手で髭を剃っていたことにはたと気がついた。ということは、わたしにとって髭剃りはテクニカルな業ではなく力仕事だということになる。なんでもないようなことながら、ちょっぴり発見の喜びに浸った次第。

関係する数

 電話で知人と話していて「関数」という言葉がでた。一次関数、二次関数、三角関数、複素関数いろいろあるが、そもそも「関数」とはなにか。「関数」の「関」は関係の「関」、とすると、「関数」とは「関係する数」ということになる。ふむ、なかなかエロい!
 ぼくの好きな国語辞書『大辞林』によれば【関数】とは、ふたつの変数x・yのあいだに、ある対応関係があって、xの値が定まるとそれに対応してyの値が従属的に定まる時の対応関係。yがxの関数であることをy=f(x)と表す、とある。
 いいねいいねいいねえ。対応関係、従属的。奥村チヨ「恋の奴隷」なんていう歌も昔あった。
 数と数の関係の中身を扱うのが「関数」。ならば、人と人との関係を「関人」と呼ぶかといえばそうではなく、一般的に「人間関係」と呼ぶ。主従関係、親子関係、恋愛関係、敵対関係etc。数学に一次関数ほかいろいろあるように、人と人との関係も内容によって呼称が違う。
 人と人との関係は、数学ほどには単純ではない。数学ではxが独立変数でyが従属変数ということだから、xが決まればyが決まる。ところが人間関係の場合、どちらがxでどちらがyかということは、なかなかに計りがたい。恋愛や夫婦の関係を考えれば、おのずと知れる。また何がxで何がyかということも、単純にはいいきれない。たとえば、親がいなければ子は生まれないことを考えれば、子は親の関数であるともいえるが、生まれた後は、親はもちろんだが、周囲の人びとや環境の影響によって子は育つ。その意味で、人は人と環境の関数と呼ぶこともできるかもしれない。
 これに関係した話で思い出すことがある。カエルの子=おたまじゃくしは、どこの池で育っても、餌さえあればカエルになる。誰に育てられようが関係ない。ところが人間は違う。親はなくても子は育つということわざがあるけれど、だれもいなくていいということではないだろう。人間に育てられて人間になるのが人間だ。オオカミに育てられれば人間の形をしたオオカミになる。昔ベンガルで見つかった。その記録を本で読んだことがある。悲しい時に涙を流すことも人間になる過程で教わると、そのとき初めて知った。もろもろの関係から人間になるための要素を吸収し、関係をかいくぐり、また、関係にしばられない人間になることが肝心。
 林竹二の授業「人間について」は、蛙の子は蛙、と同じ意味で人間の子は人間といえますか、の質問から始まった。最初にその授業記録を読んだときの興奮がまだ体から離れない。

気晴らし

 一日中家にいても体がなまるし飽きてもくるので、ちょうど生ゴミの袋がなくなったから、散歩がてら駅の近くまで歩いてみることにした。
 ぽかぽかと日差しが心地よく、なんだいつもと同じだなと思えてくる。小料理千成に顔を出し、帰りに寄るからと声をかけ、外へ出ると、ご近所のSさんに声をかけられた。「あら、どうされました?」「ええ、ちょいと鎖骨を折りまして。アハハハハ…」「笑い事ではありませんよ。たいへんですね」「ええ、まあ。そう大したことではありません、自然にくっつくそうですから…」「そうですか。どうぞお大事になさってください」「はい。ありがとうございます」
 急ぐ用でもなし、てくてく歩いていたら、自分の脚で歩いているのに、なんだか昔の駕籠にでも乗ってゆらりゆ〜らり、景色を眺めているような気分になった。これはいつもと違う。ほほほ。
 いつまでたっても名前を憶えられない駅前のスーパーマーケットで生ゴミの袋とファブリーズと詰め替え用の無香空間なんかを買って、ふむ、この気分何かに似ておるなと思ったら、蟻だ。蟻な気分。顔まで蟻に変身か。髭をいつ剃ろう?
 小料理千成は、ひっきりなしに電話が入り、本日の予約終了とか。連休の谷間、家族で千成の美味い料理を食べに行こうかの人たちなのだろう。わたしは刺身とクジラ肉の竜田揚げとキンキの煮付けと野菜の酢の物をいただいた。ミョウガの味が舌にぴりりと刺さる。エビの天ぷらは後日にとっておくことに。
 お勘定を済ませ出ようとしたらちょうどママさんが入ってきて「どんな具合かしらと思ってホームページを覗いていたところよ」と言った。
 階段はきついのでS字カーブの道をゆっくりと登った。カーブの曲がりっぱな、小学校三、四年生ぐらいだろうか、まだ開かぬつぼみのようにしゃがみ込み、顔を寄せ合い、坂を登るわたしの存在など全く気付かぬようにゲームに夢中になっていた。それがなんだかありがたかった。
 コーナーを曲がってしばらく行ってから振りかえってみたが、さっきと同じ格好だったので可笑しくなった。

ひきぎわ

 「義経」をテレビで見、鎌倉を離れ京へ帰ろうとする石原さとみ演じる静のことばにおいちゃん感動(ToT)。頼朝の妻のあのクソばばあ、因業ばばあ、おせっかいでしゃばり政子がタッキー演じる義経に奥方を世話しようなどと要らぬ世話を焼くものだから、もろもろ考える我ら義経は、静をこれ以上屋敷に留め置くことは無理かと逡巡し、静は静でそれと察し京へ帰ることを申し出る。義経が「そなたに何もあげるものがない」と言うと、「先にここに留まっていなさいと言ったのは本当ですか」と静。うなずく義経。「そのことばを持って京へ帰ります」カメラが二人にズンと寄る。こらえる両の眼に大粒の涙が浮かぶ…。義経とて同じこと。く〜っ!! もうダメ!(ToT)
 それにしても財前直美演じる北条政子。気にくわねえ。だいたい眉毛が濃すぎる。なんだその眉毛は、夫の頼朝を愛しているのかもしれないが、そんな愛し方は愛するとは言わねんだ。チクショー、おめえが余計なことを言うから、静ちゃん京へ帰ることになっちまったじゃねえか。ったくよ〜。
 ところで、物語には直接関係ないけれど、前から気になっていたことの一つに石原さとみの唇がある。何が特徴的かというと、上唇と下唇の形がいっしょなのだ。口を真一文字に結んで、そこに鏡を置いたらちょうどあんな形に見えるのではと想像される。見てしまうんだなあ。カメラも割とそこに焦点を合わせているような気がしないでもない。石原のセリフと演技はけしてうまくない。
 「義経」の前の番組が「あの人に会いたい」で、先年亡くなった作家の宇野千代が出ていた。宇野いわく「おとこのひとを好きになると、そのひとに、あなたのことが好きですと言うの。百発百中ね(笑)。それから、とにかく尽くして尽くして尽くしぬく。それは相手を思いやるのとちょっと違うわね。追いかけて追いかけて、でも、しばらくして、ああ、このひとはわたしに追いかけられることを嫌がっているなと思ったらサッと身を退く。まあ、それは、恋愛の武士道ね。泣いたりわめいたりはしない…」く〜っ!!
 え〜、10時からはK-1を見て興奮! 途中、思わず「なにやってんだよー!」と声が出る試合も。司会は藤原紀香。久しぶりに見たが、感動はしなかった。

気分

 とりあえず家にいるしかないので、塞ぎの虫が起き出さぬように適当なことをしては無聊を慰めている。長く入院し、あるいは自宅療養している方の気持ちはいかばかりかと想像してみるものの、結局は体験したものでなければ分からないかと思えてくる。
 春の海ひねもすのたりのたりかな
 ご存知与謝蕪村の俳句だが、これなど健康そのものの句だな。ボーッとして眠くなる。牛のよだれが伸びて地面に着くかと見ているようなもので…。俳句も短歌もやったことがないけれど、外と内が響きあってできたような句がいい。
 牛のよだれといえば、子供の頃、秋田の田舎でベゴノシタと呼んでいる葉があった。秋田の方言で、牛のことをベゴという。深緑色の大きな葉で道端や田んぼの畔に生えていた。それに触れると手が痺れるといわれていたから誰も好き好んで触れる者はいなかった。ある時、弟と外で走り回っていて(あの頃はよく弟と遊んだ)転んだ手の先にベゴノシタがあって、ハッとして手を引っ込めたことがあった。起き上がり、膝についた土を払ってまた走り回ったが、気のせいか何やら指先が痺れるような気がして、噂は本当だったのかと思った。今回のケガでは感じなかったけれど、指先の痺れがあると必ずといっていいほどベゴノシタを思い出す。シタは舌だ。ざらざらしていてヌルッ。連想のツルが普段とちょっとずれて伸びていくようなのも面白い。

日がな一日

 骨が折れたので、また、医者も安静が第一というから、日がな一日飽かず外を眺めたり、右手で持てるぐらいの重さの文庫本をひらいて読んだり、二、三曲聴いて放っておいたCDを改めて聴いたりと、それなりに時間をつぶしている。
 左腕がつかえぬため、おのずと右腕、特に指先に神経が集中するのか、このまま行けば、やがて右手指先で天気予報も可能、本物の関サバか名前は関サバでもまがい物かを指先一つで感じ分けられるようになるのではないかと思えるぐらいのものだ。左腕は利かなくとも右手の指先には眼があるぞ! とでもいいたいところ。
 冗談はさておき、これぞケガの功名。片腕がつかえぬことで右手指先がどれぐらい鋭敏になりうるものか、いい機会だから試してみたい。