皮を剥きビー玉色の葡萄かな
「橋本照嵩(しょうこう)と石巻のこどもたち青空写真展」
に行ってきました。
写真家の橋本さんは、
一九九六年からふるさと石巻で子どもたちと撮影会をしてきましたが、
今度の震災で教え子八名の命が奪われました。
子どもたちの写真は、
震災とは関係ありませんが、
震災を経た今の目で見直せば、
おのずと違った意味がにじみ出てくるようです。
下に掲載した写真を見ながら、
わたしは、
「春風目録新聞」第九号に寄稿していただいた佐々木幹郎さんの
「はたはたと」の詩を思い出していました。
最後の連の、
「いま 牡蠣殻を踏みつぶしながら
近づき つかむ 高きにあるもの
「はたはた はたはた」と」を。
ふるさとの池にたわわの葡萄かな
今年三月に刊行した安田速正(やすだ・そくしょう)さんの
『長塚節 『土』―鈴木大拙から読む』が、
泉鏡花記念市民文学賞を受賞しました。
講評は以下のとおり。
掲載紙にそれぞれリンクを張っておきます。
*
北國新聞
北陸中日新聞
朝日新聞
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〔講評〕
安田速正著 『長塚節『土』―鈴木大拙から読む』(春風社)
本書は、長塚節の代表作『土』を鈴木大拙の宗教的概念「日本的霊性」によって読み解き、新たな『土』論を展開した優れた評論である。また、本書の魅力は、著者の鈴木大拙理解とでもいうべきものを、長塚節の『土』において検証したところにある。
小説『土』は、貧窮にあえぐ小作人勘次一家の暮らしを、四季や風俗とともに綴り、終局において勘次が対立していた養父に心を開く曲折を描く。
夏目漱石は、『土』に登場する貧農たちを「蛆【うじ】同様に憐れなる百姓」と言ったが、著者はこの見方に納得せず、鈴木大拙の理論を借りて考究する。それは、「日本的霊性」に基づくもので、その特質を大地性・否定性・霊性的直覚の三点に集約し、霊性を「現実に人を動かす力」と解する。この視点から『土』を読むと、随処に霊性が現れ、複雑で暗いと言われる作品に光が射し、農民は神神【こうごう】しく光って見えるという。
著者は、金沢の大地を耕し、同時に文学を愛し、短歌を作り、とりわけ長塚節の人と文学に傾倒する農家のあるじである。著者は言う。『土』を一枚の織物とすると、その現実描写は横糸であり、生と死の問題、宗教問題、霊性的体験の問題は縦糸であると。本書は、まさに縦糸の宗教的、哲学的問題を重視し、『土』の内面に鋭く切り込み、論述している。
『土』発刊から百年、暖衣飽食の時代にあって長塚節の作品の再評価と、その人の宗教性に着目した意義は大きい。永年の思索と調査に加えて、熱情溢れる姿勢が印象的である。金沢市民文学賞に推薦するものである。
ユーストの意味も分からず出てみたり
つぶやく→ツブヤ区→ツブヤ大学。
こういう関連のようですが、
このNPO法人ツブヤ大学の公開講座「本をつくる仕事とは?」
に出演して参りました。
ヨコハマ経済新聞編集長の杉浦裕樹さんをお相手に、
本づくりについて日々思うところをあれこれトーク。
が、
始まる前に、
会社で重要な打ち合わせが四時間ほどあり、
そのことで頭がバンバンに膨れ上がり、
切り替えに難渋。
ツブヤ大学代表の望月さんが、
最初にしては上々と喜んでおられましたから、
まずは一安心。
次回からは、
ちゃんと事前準備をして臨みたいと思います。
蟹くんが朝の運動天高し
忽然と沢蟹一匹出で来り
家人が、なんか居るというので、
見てみると、沢蟹でした。
どこから歩いてきたのでしょう。
保土ヶ谷橋の下を流れる川からでも上がってきたのか、
いずれにしても、
季節外れなことは否めません。
逃がすにも、
どこへ逃がせばいいか分からないので、
とりあえず、
ベランダに置いてある大きな空のバケツに入れ、
底を蟹くんの風景に見立て、
水を入れた皿を置いたり、
ご飯粒を置いたりしてみました。
が、
食べてくれたのかくれてないのか、
よく分かりません。
今井川に放すのがいいかとも思うのですが、
海のものだとすると、
それも具合悪いわけで、
本人に訊くわけにもいかず迷ってしまいます。
指を近づけると、
ハサミを万歳のように振り上げるので、
なかなかです。
講演を終へて侘しき秋の風






