天せいろ

 

午前中来客がありまして、いつもより早めの出社。
打ち合わせの後、窓の外に目をやれば、雨も上がって爽やかな冬の日となっています。
そうだ太宗庵!
ビルを出て、てくてく紅葉坂を下り
「たいそうあん、たいそうあん、なに食べようかな、っと」
揉み手しながら小走りになり、右折し音楽通りへと。
ん!?
いつも数名並んでいるのに、店の前に人が居ない。
これはひょっとして。
店が開くのが11時45分。
オープンと同時に客が店に入り、
それでいま店の前にだれも居なくなっているのではないか。
暖簾を右手でかき上げ中の様子を見ると、
予想的中。
腕時計の針は11時48分を指している。
しばらく外で待つことに。
10分ぐらい待ったでしょうか。
食事を終えた客がひとり出てきたので、入れ替わりに店の中へ。
手指を消毒し、空いている椅子に着席。
「天せいろ。大盛でお願いします」
坂を下りながら、
こころに決めていたのだ。
いまは新そばの時期でもあり、そばの微妙な旨みを味わうには絶好の季節。
わたしはこの店でそばの味を知りました。
そうだ、そうだった。
薄目を開け、そんな記憶を辿っているうちに、
やがて目の前に所望した天せいろ。
さて。
そばからいくか。天ぷらからいくか。
温かいおつゆにしたから、天ぷらからにしよう。
まずは野菜。
レンコンだな。
旨い! 甘い! レンコンの旨みを天ぷらの油が引き出したのか。
と。
そばを少々。
ああ。美味い!
つぎは、かき揚げにしてみるか。
サクッ。サクッ。
ああ、美味い!
ん!?
これは…。むかご、か。むかごだ。ああ、秋が凝縮しているではないかっ!
それから、またそばを。
ズルッ。ズルルッ。
食べ終わって、温かいおつゆをレンゲで空の器に移し、
そばつゆを入れ。
ゴクッ。ふ~。
美味い!
もう一口。さらに一口。しめの一口。
ああ!
ごちそうさまでした。

 

・冬の星いま存在の明け開け  野衾

 

耳を育てる

 

高校の教師をしていたころ、準備する自分がたのしく、
教室の生徒がおもしろいと感じてくれるような授業をつくりたいと念じて、
いろいろ本を読みました。
大勢の人の前で話すことが少なくなった今、
どうなったかといえば、
本を読む時間は、あの頃と同じか、あるいはそれ以上かもしれません。
授業準備とちがうのは、
話をするための読書ではなく、
話を聞くための読書、にどうやらなっていること。
たとえば対談に臨む場合、
相手をしてくださる方が本の著者であれば、
その本を三回読んで、要点をメモし、
こういうことをお聞きしたいというプロットを事前に渡すようにしています。
いわば聞くための読書。
対談でなくても、
相手の話を聞くときに、
体験にもとづく土俵に登り、
体験を拠り所とする耳だけで聞くことも可能ですが、
話される内容に触れ、近接することを扱った本を事前に読んでいると、
理解のあり様が変る気がします。
学者・研究者ということであれば、
なおさらです。
仕事にかぎらず、
プライベートな対話でも、
向き合う相手の価値観の拠ってきたる深処に触れ、
的を外さぬためにも、
読書は有効であると感じます。

 

・冬の朝丘上の家の灯りかな  野衾

 

大地の神秘に根を下ろす

 

ハイデガーの思索は、無神論、あるいは有神論であると早々と決め付けるのは、
誤りであり、
また、神の存在の問題には無関心な哲学であると決め付けるのも、
誤りである。
ハイデガーは、シェリング講義の中で、
「あらゆる哲学は、根源的・本質的な意味において神学である」とし、
「例えば、ニーチェの哲学もまた、
まさに《神は死んだ》という本質的な命題をそのうちで述べた故にこそ、
《神学》なのである」と言い、
全体としての存在者のロゴスの把握のために、
存在の根柢としての神を問うことが、
哲学のあり方なのだと表明してもいるのである。
(上田圭委子『ハイデガーにおける存在と神の問題』アスパラ、2021年、pp.443-4)

 

もう無くなっていると思いますが、
わたしが子供のころ、近所に、さほど大きくない沼、というか、堤がありました。
弟を連れ、釣りに出かけたことがあったように記憶しています。
周りは田んぼで、そこだけボカッと、
まるで大地の奥歯が抜けでもしたように、
不思議な印象を与える堤でした。
堤の底はものすごく深くて、
高台にある堤の底は、
坂を下ったところに位置する大きな沼と繋がっている、
というようなことが囁かれていた…。
いや、
明るい広々とした風景のなかにあって、
不思議な光景を湛え、
ひとことも発せぬ堤の印象が、
わたしの勝手な想像に刺激を与えていただけかもしれません。
正確に話そう、書こうと思えば思うほど、
底の知れないものが姿を現してきそうな気がします。

 

・地を擦る葉の音ひそと冬の月  野衾

 

21世紀のハイデガー

 

確かに、何が善で何が悪であるかの基準の問題はさておいて、
道徳性や行為の善悪が問題とされうるのは、
現存在が、自らの行為の可能性を選択しうるような存在であること、
つまりはその選択の責任を負いうる、
選択は自らに拠るという意味での自由な主体としての「責め在る」存在である
ということが露呈されて初めて、問題とされうるのではあった。
このことは、
あらゆる現存在が、非本来的なあり方において、
ただ世界の方から己を了解し、
世界の方から、
誰のものでもあって誰のものでもない世人自己として何らかの行為の可能性を
そのつど選び取っているだけである限りは、
どの個人も、責任ある主体としてのあり方をしているとは言えない、
ということを意味する。
例えば、
当事者のすべてが世人としてのあり方をしていたならば、
そのうちの誰一人として、
電力会社が国策において行った原子力発電が引き起こした事故の責任者ではない、
といったようなことが生じうる。
世人は、そもそも「責め在る」存在たりえないからである。
その結果、
非本来的な世人の集まりとしての共存在からは、誰も責任を取らない、
いや取ることができないままに巨大収奪機構の中に捲き込まれてゆくだけの組織しか、
生まれようがないということになる。
(上田圭委子『ハイデガーにおける存在と神の問題』アスパラ、2021年、pp.418-9)

 

高校の教師をしていたころ、二度、水俣を訪ねたことがありました。
いまはどうか分かりませんけれど、
当時、
「現代社会」の教科でも「政治経済」の教科でも、
公害問題が取り上げられていましたので、
水俣病について、
本に書かれていること以上に知りたい気持ちに駆られてのことでした。
訪ねた折ちょうど、
水俣病に認定されていない地元の人々の、
会社側との自主交渉の場に参加させてもらえる機会がありました。
五人でしたか、会社側の「お偉いさん」が並び、
体調の不具合を訴える切実な質問に対して規定どおりの答えを繰り返していたとき、
わたしの後方から叫びに近い声が上がりました。
「お前ら、それでも人間か」
ふり返ってみると、
髪の茶色い、おそらく高校生でしょう、
若い女性でした。
わたしは、わたしの勉強にとって、
そのことだけでも、
水俣に実際に足を運んだ甲斐があったと思いました。
むつかしい哲学の本を読んでいると、
字句の辞書的な意味を追うだけで汲々としてしまいがちですが、
上田さんの『ハイデガーにおける存在と神の問題』
には、
アクチュアルな問題意識がピーンと張り詰められており、
改めて、
本を読むこと、そのことをとおして思索すること
の意味と意義について深く考えさせられます。

 

・乳母車母と子と吾に冬の月  野衾

 

世人(das Man)

 

世人とは、自らを世界の意義連関の方から理解し、好奇心によって動かされて、
次から次へと新しいことを知りたがり、
知ってしまえばそれを深く考えることなく興味を失って、また次の新しいことを知りたがり、
内容のないおしゃべり(空談)に現を抜かし、
自分が語ってることの意味も、
また自分が置かれている状況の意味もきちんと把握せず、
過去を踏まえず忘却し、
未来に向けてどうあるべきかを曖昧にして、深く考えることなく生きている(曖昧性)、
そうした在り方をした現存在のことである。
しかしこうした非本来的な在り方においても、
現存在は、
世界の意義連関の中に埋没しつつ、何かを絶えず了解したがり、
語りたがるという傾向をもっているのは、
本来的在り方をしているときだけでなく、
非本来的な在り方をしているときにも現存在が開示性という性格を持っているがゆえであると、
ハイデガーは見ている。
(上田圭委子『ハイデガーにおける存在と神の問題』アスパラ、2021年、p.403)

 

雅楽や能の世界で、序破急ということばがありますが、
ハイデガーに関する上田さんのこの本、
後半に入り、記述の熱量がすごく高まった感があり、
それに伴い、
上田さんが語るハイデガーの話を、
もっと、もっと、と身を乗り出して聴きたくなる、
また聴いている具合です。
現存在はDaseinの訳語ですが、
ハイデガーは、のちにハイフンを入れ、Da-seinを用いるようになりました。
これについても、
存在の明け開けに関する小野寺功先生の一回限りの
かたくりの花のエピソード、
それと、
大伴家持が越中で詠んだ堅香子《かたかご》の花(=かたくりの花)
の歌を補助線にすることにより、
なるほどと合点がいきます。
序破急の急にあたる上田さんの本の第三部は、
「中期以降のハイデガーにおける存在と神の問題」です。

 

・ひとを恋ひひと嫌ひして冬籠  野衾

 

股引のこと

 

突然ですが、ことしはまだ、いまのところ股引を穿いていません。
十二月に入りましたから、
この時期、
去年、おととしと、ラクダの股引を穿いていました。
これがとっても暖かい。
下半身がぬくい毛布にくるまっているみたい。
それなのに…。
ひとことで言えば、強がり。
強がりができるようになったとも言えます。
数年前、
体調を崩したときは、
風呂に入り湯舟に浸かっていても、ぶるぶるふるえることがありました。
週に一度の鍼灸、それと連日のツボ踏みが功を奏し、
体調が戻ったことを機に、
すこし強がってみようと思っていたところ、
鍼灸の先生が後押ししてくれましたので、
がまんできる範囲で強がっていようと考えています。
甘いものを食べ過ぎると、体が冷え、どうしても外から温めてやらなければならなくなる、
とは、
鍼灸の先生の言。
ジーンズを穿いた子供のジーンズの破れ目から、
下に穿いているものが見える昨今
のことを例に、
体温と食べ物の関係を説明してくれました。
わたしの自覚としては、
寒いと感じても、
ぶるぶるふるえることがなくなり、
それと、
寒い所から暖かい空間に入ったときに、
体温の戻りが以前と比べ、スムーズになった気がします。
若いころの不摂生の罪滅ぼしに、
というわけではありませんけれども、
きょうもこれからツボ踏みです。

 

・冬の月荷風家持新古今  野衾

 

「存在」について

 

ハイデガーは、ある論稿の中で、ヘーゲルの言葉を引用しつつ、
存在について以下のように説明したことがある。
それは、
ある人が店で〈果物〉を買おうとし、店の人は、そのひとにリンゴ、洋ナシ……サクランボ、
ブドウなどの果物を手渡したが、
そのひとは、どうしても〈果物〉を買いたいのだと言い張った、
しかし、
〈果物〉(という普遍的な概念)は店では買えなかった、
というヘーゲルの言葉である。
ハイデガーは、
このように「存在」もまた、それ自体をそのものとして名指すことはできず、
存在の歴史の中で、
「ピュシス、ロゴス、一(ヘン)、イデア、エネルゲイア、実体性、客体性、主体性、
意志、力への意志、意志への意志」といったように
「何らかの特色」を持つものとしてそのつど人間に手渡されてきたのだ、
というのである。
このことはおそらく、
ハイデガー自身の「存在への問い」においてもあてはまるであろう。
彼もまた、「存在」を、さまざまな仕方でロゴスへと齎そうとしているが、
おそらく「奥深い存在」とも呼びうるような「存在」そのものは、
対象化されず、
言葉にも齎されえないというのが、本当のところではないかと思われる。
したがって私たちは、
ハイデガーがどのようにその問いの途上で「存在」について語っているのか
を見ることを通して、
ハイデガーにおける存在とはなにかを、全体として理解するように努めたい。
(上田圭委子『ハイデガーにおける存在と神の問題』アスパラ、2021年、p.276)

 

ことし前半の読書は、
ブルクハルトの『ギリシア文化史』で彩られましたが、
後半は、
小野寺功先生の
日本の神学を求めて』『新版 大地の哲学 三位一体の於てある場所
を編集したこととも関連し、
ハイデガーの言説に目が行くようになっています。
とくに、
先月上梓したわたしの句集のなかにある「かたくりの花」
に注目し、
手紙をくださった小野寺先生の文章に記された先生の子供時代の
いわば「かたくりの花」体験とも呼ぶべき、
一回かぎりの忘れられないエピソード、
それと『萬葉集』にある、
大伴家持が赴任先の越中で詠んだ堅香子《かたかご》の花(=かたくりの花)
が重なり、
あらためて、
ハイデガーの「存在」をわたしのこととして、
わたしのことばで理解したいと思うに至りました。
数年前、
渡邊二郎さんの本をおもしろく、
また緊張して読んだので、
渡邊さんに師事したという上田圭委子さんの本を見つけ、
読み始めたら、
これが圧倒的なおもしろさで迫ってきました。
巻末の著者略歴、「あとがき」を見ると、
上田さんは香川県生まれで、東京大学の農学部林学科卒業となっていますから、
もともと哲学をやろうとしたのではなかったのかもしれません。
訪問介護のパートをしていた時期もあったそうで、
そういう経歴をふくめ、
機会があれば、
お話を伺ってみたいと思います。

 

・玻璃の家丘にひつそり冬紅葉  野衾