二日間、浩瀚な学術書をおもしろく読み、夕刻、壁に掛けてある時計を見たら、
五時を過ぎていた。
散歩がてら外へ出てみることに。
十二月に入ったので、この時刻でもすっかり暗くなっている。
すでに月が高くまで昇っている。
月齢はどれくらいか、
満月までにはあと三、四日かかりそうだ。
暗いなか、山の細い階段を下り、
まずはドラッグストアへ。
歯ブラシと魚肉ソーセージとチチヤスのヨーグルトを買う。
もう一軒、コンビニにも寄るつもりだから、
大きめのレジ袋に容れてもらう。
外はとっぷり暮れている。
いつも長く待たされる信号で待っているあいだ、見上げると、月はさらに天心へ。
信号が青に変って横断歩道を渡る。
左に曲がれば程なくコンビニだ。
と、
「ほら、ケンちゃん、月が出ているよ」
「……」
「見える? きれいだよ」
「うん」
ふり返れば、
すぐ後ろを乳母車を押している若い女性が、なかの子供に話し掛けている。
母に話し掛けられた子は、だまって月を見上げている。
つられてわたしも見上げた。
我に返り、
コンビニで買うつもりのものを算えあげ、
明るい店内へ入った。

 

・吾もまた過客となりて枯野行く  野衾

 

家の友

 

「家の友」(der Hausfreund)
……通常の意味では、
別に何といふ用事もないのに度々訪ねて來ては話しこんで行く家庭の友人のことである。
さういふ友人は、家族ではないが、家庭にとつて、
特にその家庭の雰圍氣にとつて、
場合に依つては家族の一員よりも、無くてはならぬ人物である。
ハイデッガーはこの書物の内では「家」を「人間の住家」としての「世界」と解し、
ヘーベルの言ふ「家の友」を、
さういふ「世界としての家」にとつての「友人」と解し、
さういふ意味での「家の友」に「詩人の本質」が存すると、思惟してゐる。
(マルティン・ハイデッガー[著]高坂正顯・辻村公一[共譯]
『野の道・ヘーベル―家の友』理想社、1960年、p.66)

 

ハイデッガーが「ヨハン・ペーター・ヘーベルは家の友である」と記した、
「家の友」に注番号が付されており、
その譯註として書かれているのが上の文章です。
これを読んだとき、
文の主旨とはズレますけれども、
わたしがまだ子供だったころのことがなつかしく思い出されました。
あの頃、
祖母の兄が、
我が家から歩いて二分とかからぬところに住んでおり、
わたしの祖父と仲が良かったので、
よく訪ねてきていました。
小柄なひとでした。
気が置けない仲のいい男同士だからこそであったでしょうが、
意識を超えたこころの奥で、
妹を思いやる気持ちが無意識に働いていた
のかもしれぬ
と、
いままでそんなふうに考えたことがなかったのに、
ふと思いました。

 

・冬紅葉うら悲しくもまどふかな  野衾

 

ハイデッガーの言葉観

 

私たちは次のやうに考へるかも知れません、すなはち、ヘーベルの詩は、
方言詩であるが故に、
ただ或る限られた狹い世界のことを言つてゐるに過ぎないと。
さらにその上ひとは次のやうに考へます、
すなはち、
方言は標準語や文語に加へられた虐使であり、毀損であると。
しかし、
このやうに考へることは見當違ひであります。
國言葉こそ、
如何なる言葉の場合においても、すべての生え拔きの言葉の靈妙なる源泉であります。
言葉の靈がそれ自身の内に祕匿してゐるすべてのもの、
それはこの泉から私たちの方へと流れ寄せて來るのであります。
(マルティン・ハイデッガー[著]高坂正顯・辻村公一[共譯]
『野の道・ヘーベル―家の友』理想社、1960年、p.28)

 

翻訳された日本語が、ゆっくり静かに、読んでいるこちらに沁みてくるようです。
この本は、
小野寺功先生の『新版 大地の哲学 三位一体の於てある場所
にでており、
先生の思想の遍歴を辿るには欠かせない
と思われたので、
古書で求めて読みました。
「野の道」は、
田舎で生まれ育ったわたしには、我がことのようです。
『存在と時間』のハイデッガーは、
こんな感性の人であったかと、
大げさかもしれませんが、
わたしのなかのハイデッガー像が変りました。
上で引用した文章は、
「野の道」のあとにつづく、
ヨハン・ペーター・ヘーベルに関するものですが、
これを読むまで、
この詩人のことを知りませんでした。
そして、
この詩人について、
ハイデッガーは惜しみない賛辞を送っています。
とくに方言に関する観方は、
我が意を得たりの感が強く、
この詩人のものも読みたくなりました。

 

・野も山も涙ながらに冬紅葉  野衾

 

未確認生物

 

早朝、ゴミの袋をもって外に出たときのこと。薄暗い目の前の道を何かが通り過ぎた。
うす暗いなか、さらに黒い塊のようなものが、たったったったったっ、
と。
猫? ちがうな。犬か。いやちがう。子狸。まさか。
ゴミ収集ネットをセットし、
なかへゴミの袋を入れたものの、
やはり気になって仕方がない。
黒い塊が向かった方角へサンダル履きで走った。
人間の走るスピードよりは速くないと目視していたのに、
どこにもそれらしい姿は見つからなかった。
猫でも犬でも子狸でも、
はたまたそれ以外の動物でも、
いったん見遣ったにも拘らず走って追いかけたのは、
その動きと動きかたに、
ちょっと切なるものがあり、
なんとなくザワザワした印象がこちらに伝わったからだ。
何だったかよりも、
あのときあの塊がどういう心情だったのか、
それが知りたい。

 

・ふるさとは連山今ぞ冬紅葉  野衾

 

幸福の時

 

翌日にならなければ出発できなかったので、わたしはただひとり部屋にとじこもって、
生涯でもっとも悲しい一日を過ごした。
わたしは、
窓ガラスの一枚に書き残された
〈あなたもアンリエットをお忘れになるでしょう〉という言葉を見た。
この言葉は、
わたしが贈った小さなダイヤモンドの指輪の角かどで、
かの女が記したものだった。
この予言は、わたしの慰めにはならなかった。
だが、かの女はいったい〈忘れる〉というこの言葉に、
どんな広い意味をふくませたのだろう?
実際かの女は、この言葉に、
忘れればわたしの心の傷が癒えるだろうということ以外には、
何の意味も考えていなかったに違いない。
それは自然な考えではあったが、何もそんな悲しい予言をしてくれる必要はなかった。
いや、
わたしはかの女を忘れられなかったのだ。
今もわたしは、かの女のことを思い出すたびに、魂が慰められるのである。
もう年老いてしまった現在、
わたしを幸せにしてくれるものは古い記憶の蘇りしかないが、
わたしの長い人生は、
不幸だった時よりも、むしろ幸福だった時のほうが多いように思われる。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 2』河出書房新社、
1968年、p.65)

 

こんなことを言っているカサノヴァですが、
その後、時を措いて、この謎の女性アンリエットに会うことが予告されており、
こうなると、
先を読みすすめないわけにはいかなくなります。
その後の出会いもふくめて、
「わたしの長い人生は、不幸だった時よりも、むしろ幸福だった時のほうが多い」
ように思うことができれば、
それこそ幸福といえるのかもしれません。
でもこの男、
なかなか一筋縄では捉えられない気がします。
「回想録」はあくまで自叙伝ですから、
〈書く現在〉において、じぶんが気にいるように、
あるいは、
気持ちよくなるように書き記すという欲望がおそらく働いているはずなので。
そこのところは割り引いて考えなければならない
と思いますけれど、
にしても、
よくこれだけのものを、記憶を記憶だけを頼りに書いたかと、
そのことにまず圧倒されます。

 

・なだらかな稜線を行く冬紅葉  野衾

 

光源氏とカサノヴァ

 

「何ですって! すると、あれは自尊心からではなかったのですね?」
「ええ、本当はそうじゃなかったのです。
あなたはあたしに対して正しい判断だけをして下さいましたわ。
あたしは、
ご存知のような馬鹿なまねをしましたが、
それは、義父があたしを修道院へ入れようとしたからなのです。でも、
どうか身の上話には興味をお持ちにならないで下さい」
「うるさくは聞きませんよ。わたしの天使。今は愛し合いましょう。
二人の平和を乱すかも知れない将来の心配などはしないことにしましょう」
二人は愛し合いながら寝たが、
翌朝ベッドを出るときには、さらにいっそう愛し合っていた。
こうしてわたしは、
つねに同じ愛情を抱いて三カ月を過ごしたが、たえず愛することの幸福に酔いつづけた。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 2』河出書房新社、
1968年、p.42)

 

もう四十年も前になりますが、『源氏物語』を原文で読もうと思い立ち、
岩波書店から出ている「日本古典文學大系」の五冊を、
こまかい注と古語辞典をたよりに冒頭から、
まさにカイコが桑の葉を食むように、
毎日少しずつ読み始め、
さいしょは、
脳味噌から汗がたらたら零れ落ちるような具合でしたが、
だんだんと物語をおもしろく思えるようになってきたとき、
女性たちに対する光源氏の熱量の多さに驚き、
さらに読みすすめていくうちに、
相手ひとりならいざ知らず、
複数の女性に対して、
しかも同時に、
この熱量の多さにはリアリティがないな
と白けはじめ、
そうか、
この物語は、一応、光源氏が主人公となっているけれども、
光源氏は、物語を進めるための、
いわば狂言回し的人物でもあって、
本当の主人公は女人たちだなと思った。
なので、
のちに、瀬戸内寂聴さんの『女人源氏物語』を読むに至り、
さもありなん、我が意を得たり、
と合点がいった。
したがって、
スーパーヒーローは、現実にはあり得ないと高を括っていたところ、
世界は広いわけでありまして、
十八世紀のヨーロッパには、
光源氏と見紛うばかりのプレイボーイが、実際に、歴史上存在していたのでした。
それが、ジャコモ・カサノヴァ、
あるいはカザノヴァ、カザノーヴァ。
ヴィクトル・ユゴーの伝記的事実を知ったときも、
その絶倫さに舌を巻く思いをしましたが、
要するに、
膾、刺身の文化とステーキの文化では、
恋における熱量が基本的に相違しているということかもしれない。

 

・奥山に大き石あり冬紅葉  野衾

 

根のあるはなし

 

哲学者・小野寺功(おのでら いさお)先生の本を、増補したものを含め、
これまで七冊、春風社から上梓しました。
そのうち二冊はことし。
今年刊行した二冊を担当したこともあり、
よく電話でお話を伺い、
いまもちょくちょく電話をしては、いろいろ面白いはなしを教えてもらっています。
先生の話を伺っていると、
何ごとによらず、
なんと言うか
(そうそう、先生は「なんと言うか」が口ぐせ)
勇気が湧いてきます。
なんでか、
と不思議な気もしますが、
どうやら、
先生の思索、それに基づくことばの一つ一つが、大地に根を張っていて、
そこから豊かに養分を吸い上げているからかな、
と。
新井奥邃(あらい おうすい)を最後まで世話した中村千代松の文章に、
新井先生ほど偉い人を見たことがない、
それは、
新井先生には根があるからだ、
というのがあり、
わたしは新井奥邃を直には知りませんので、
中村の感じ分けの微妙なところは分かりませんが、
小野寺先生の文章、話しことばに、
わたしは根を感じます。
そういうことを踏まえつつ、
思想の「根をめぐって」先生と対談、
というか、
いろいろお話を伺い、
一冊にまとめたいと考えています。

 

・冬の駅舎窓越し鳶旋回す  野衾