信仰のかがやく場所

 

ことわざに「鰯の頭も信心から」があり、
関暁夫さんの「信じるか信じないかはあなた次第」という文言も、
よく耳にしますが、
信じる、信じない、に関し、
味のあることばだと思います。
見えるものだけを在るとするのか、見えないものでも在るかもしれないとするかで、
大きくちがってくるかもしれませんが、
『聖書』の「マルコによる福音書」第九章二十四節に、
信じることについての切実なことば
が記されています。
悪い霊に取りつかれた我が子をなんとか救いたくてイエスのもとにやってきた父親
のことば。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
下に引用する、小塩力(おしお つとむ)さんの文には、
『聖書』からの引用はありませんけれど、
「マルコによる福音書」の当該箇所に深くかかわっていると思います。

 

だいぶ前に、ある小説家が、神父カンドウらしい人の説教を聴聞ちょうもんして、
感動する場面を描いた一文を読んだことがある。
われわれが、礼拝の中心部として、正統的なかたちで期待している説教とちがって、
聴衆との共通の部分をたしかめ、
小さな、
しかも抗あらがいがたい手がかりを与えて、
終局に達するような説教である。
その最後の「手がかり」の部分が、
次のような詩の引用を核心としている文章にみられる。
「……わたくしは最後に、ヴォルテールの詩を皆さんにご紹介したいと存じます。
あの、キリスト教に反抗し、キリスト教を敵視したヴォルテールにさえ、
こういう美しい詩があるのです。
その詩を申しあげて、
わたしの話を終りたいと存じます。
これは、
珠玉のような、極く小さい詩でありますから、
これだけは原語で、フランス語で申しあげます……。
これを好い加減に、
日本語に訳してみますと、
『若し神様というものがあるとするなら、
神様、
どうかわたしに幸福を与えて下さい』
という意味になります。
皆様も夜中に目がさめて眠れない時は、
どうぞこのヴォルテールの詩を口ずさんで下さい」。
ここに、
不信仰の真剣にあらわにされる場所には、
ふしぎにも、信仰が輝くことが示されると思う。
キリストの形の成るところにこそ、
この二重の真理がみえてくる。
信仰をほこってはいけない、とともに、信じえない現実を、
ただ悲しんでいてもいけない。
(大塚野百合・加藤常昭[編]『愛と自由のことば 一日一章』日本基督教団出版局、
1972年、p.349)

 

小塩力さんは群馬県の生まれ。1903-1958。
上で引用した文は、
新教出版社から1959年に出版された『キリスト讃歌』からのもの、
とのことです。

 

・夢の世を葛の葉裏のささめけり  野衾