ペスタロッチーさんの祈り

 

彼は自ら筆を取った(これは長い間彼れのしなかつたことである)。
併し言語道断の攻撃が惹起した強い昂奮と動揺とに彼れの頭はもう堪へられなかつた。
恐怖は彼を病床に投じた。
そこで彼は
ブルックの彼れの医師シュテーブリン博士を呼んで
今後どのくらゐ生きられるか尋ねた。
それは正確には決められないといふ答に対して、
彼は今後六週間くらゐは生きられるかと更に尋ねて、
次のやうに附け加へた。
「私は是非とも……私は是非とも
もう六週間は生きて恥づべき誹謗を反駁しなければならない。」
このやうに心の乱れた昂奮のうちにあつて、
彼はわけても次のやうに書いてゐる。
「おゝ名状も出来ない苦しさだ。誰も私の心の苦痛を解することは出来ないであらう。
人々は年老いた弱い脆い人間を罵る。
そして今や彼をたゞ使へなくなつた道具のやうに見るだけだ。
これを苦痛に思ふのは私自身の為ではない。
だが人々が私の理念を辱かしめ
さげすんで
私にとつては神聖な而も私が長い苦しい一生の間求めて戦つて来たところのもの
を踏み躙るのは苦しい。
死ぬことなどは何でもない。
喜んで死なう。
私は疲れて最後の安息が欲しいからだ。
だが生きて来たこと、総てを犠牲にしたこと、何ものも達成されず何時も
たゞ苦しんでばかり来たこと、
何時も為すところなく総てが粉砕するのを見て、
自分の仕事と共に墓の中に落ち行くこと……。
おゝそれは怖ろしいことだ。
私にはさう言ふことさへ出来ない。
そして私はもつと泣かうと思つた。
だがもう涙も出て来ない……。
そして私の貧しい人々よ、圧へつけられ、さげすまれ
そして排斥された貧しい人々よ……。
貧しい人々よ、
人々は御身等をも私同様に棄て去り追放するでもあらう
――富める者はその有り余つた境遇にゐて御身等のことなど考へもしない。
せいぜい御身等に一片ひときれの麺麭を与へるくらゐのことだ。
それ以上は何も与へはしない。
――彼自らが実は貧しいので、
たゞ金より外には何も有つてゐないのだ。
御身等を精神の饗宴に招き、御身等を人間にしようなどとは、
人々はまだまだ長い間、
本当に長い間考へてはくれないだらう。
併し雀のことさへも考へ給ふ天なる神は御身等を忘れず、
御身等を慰め給ふであらう。
神が私を忘れず、私をも慰め給ふやうに。」
(ハインリヒ・モルフ[著]長田新[訳]『ペスタロッチー伝 第五巻』岩波書店、1941年、
pp.419-420)

 

こういうことを書かざるを得なかったペスタロッチーさんを、気の毒に思います。
それがいちばんですかね。
貧しい子らのためにひたすら働いてきたペスタロッチーさんが、
最後に到った場所がここだったのかと、
思わずにいられません。
かつてペスタロッチーさんの生き方に感動して寄りつどった人びとが、
おのれの正義に執着し、
分裂し、
ペスタロッチーさんが涙ながらに訴えても、
どうしようもないところに来てしまいました。
人生最後の時期の、
この引用した文の強度というものは、
イエスの弟子が書いた聖書の箇所に匹敵するものであると感じます。
モルフさんの『ペスタロッチー伝』を読んで、
もっとも感銘を受けたのは、
ペスタロッチーさんが、
いかに聖書の教えを愚直に実行したか、
ということ。
そして、
人が人を理解するということがいかに難しいか、
正しさよりも赦すことが
いかに大いなる行いであるか、
ということ。
『ペスタロッチー伝』全体の恐らく半分以上は、
ペスタロッチーさん本人のものを含め、
ペスタロッチーさんにかかわりのあった人の書簡で構成されています。
書簡というのは、
特定のだれかに対して書くものですから、
まごころ、真情が出やすい。
『新井奥邃著作集』を編集していたとき、
そのことを身をもって知りました。
ペスタロッチーさんの手紙文は、
相手のこころに切々と訴えかけている、
にもかかわらず、
かたくなになったこころは、
どうにも動くことがありません。
この文をつづった後、
ペスタロッチーさんは程なく亡くなりますが、
聖書になぞらえていえば、
ペスタロッチーさんは、
死んで蘇ったのだと思います。
たとえば、
モルフさんのこの本を訳された長田新(おさだ あらた)さんの生き方、
日本にペスタロッチー主義の教育をもたらした高嶺秀夫(たかみねひでお)さん
の生き方、
稀代の教育者・教育実践家であった斎藤喜博さんの生き方に、
ペスタロッチーさんの精神が生きて働いていた
のだと思います。
それを、
あとにつづく人につなげたいと
こころから思いました。

 

・アスファルト黒く染みゆく走り梅雨  野衾