「存在」と「存在者」

 

ハイデッガーが実存に基づく存在の哲学としての彼の哲学の中核に据えている存在とは
実はこんなものである。
個々の存在者はたしかにある。
がしかしその存在者がある(「ある」に圏点)という、
そのある(存在、「ある」に圏点
とはどういうことなのか。
我々は目を丸くして探してもそういうものにはぶつからない。
存在はいわば無のように、
手探りし求め尋ねてゆくその先から姿を消してしまう。
がしかし、
存在と言う時、
何か存在者とは違う、
存在者が立ち現われ、生滅するその底にそれらを生起させる地平のようなものとして
たしかに存在しているものとして我々が考え、
了解していることもまた事実のようである。
こうした存在、
それは時に無と名指されたり、‹Sein›という文字に×印をつけて示されたり、
「四方形」の交錯する場と考えられたり、
「存在史」とされたり、
いろいろにハイデッガーでは言われるが、
それはあえて言い切るとすれば、
いわば万物の底にあってすべてを支える神のようなものであろう。
ハイデッガー自身はこのような言い方を極力避けてはいるが、
いろいろな言い廻しからほぼそう判定していいようである。
ともかく厳密に言い得ることは、
存在は存在者とは違うもの、
かといって全然別物ではない、
それと密接不可離にあるもの、そういうものである。
ハイデッガーはこの両者の差異を「存在論的差異」と呼んで重視し、
この差異を忘却してあたかも存在を存在者のように考える思考を「存在忘却」と呼び、
そういうものを厳しくいましめるのである。
或る意味でハイデッガーの哲学は
二〇世紀の今日が徹底した「存在忘却」の時代であることへの厳しい批判的対決
から生まれ出たものと言っていいであろう。
(『渡邊二郎著作集 第2巻 ハイデッガーⅡ』筑摩書房、2011年、p.630)

 

引用文中の「四方形」に註が施されており、
「「四方形」(das Geviert)とは、最近彼の言い出した思想で、
天と地、神々と死すべきものという四者が根源的な統一に於て、照りはえ、
相照応し合う世界のことである」
と説明されています。
「四方形」が、
いわばハイデッガーの世界観と言ってもいい
ように思います。
さて、
このブログで幾度か引用した渡邊二郎さんのこの本ですが、
むずかしいけれどおもしろい、
の代表格のような本でした。
ハイデッガーと格闘するようにして解説している、
と思われ、
単語は難しくても、
言い廻しは分かりやすく、
考えに考え、
それを考えることは、自分自身の生と時代の問題を根底において捉え、
日々の行為への促しにつながるのだという信念のようなもの
が、
熱く、静かに、
つたわってくるようでした。
そしてさらに、
勝手な想像を言えば、
ハイデッガーの「存在」と「存在者」、
また「存在忘却」には、
渡邊さんの言葉との関連からいって、
聖書とキリスト教の神への思慕のようなものがあるとも感じます。

 

・あたたかや縄文土器を古き丘  野衾