荷風の性格

 

トルストイの名は「日誌」に出て来るが、ドストエフスキーの名は出て来ないばかりか、
彼の口から聞いたこともない。
彼は心理小説には余り心を引かれなかったのだろう。
この辺で結論をいえば、
彼はサイコロジストではなくて、
そんな言葉があるかどうか知らないが、ヴィジュアライザーである。
心理の曲折波瀾に興味を持つよりも、
目に見えるものを楽しむ型の性格だと思う。
彼が風景描写がうまいのも、女の姿態を描いて抜群なのも、
彼のこの性格によるものであろう。
そういう目で見ると、
この「日誌」くらい荷風の性格を赤裸々に現しているものは外にあるまい。
しかも、
青春の情熱を込めて書いているのだから、
――彼が一人前の人間、芸術家になろうとしている時の、以前の、未完の、
ボイラー一杯の熱湯が苦悶している呼吸の切実さは、
彼の外の作品には見られない。
人は「断腸亭日乗」を赤裸々だという。
しかし、
私に言わせれば、
「日乗」は赤裸々ではない。
赤裸々なのは、この「日誌」の方だ。
「日誌」には何を語ろうとする意識がない。
無意識で、
声を限りに全心をぶつけている。
「日乗」には意識があり、作意がある。筆者の冷静な顔が行間に覗のぞいている。
そうして「日誌」には成長がある。
青春の成長が楽しい。
(小島政二郎『小説 永井荷風』鳥影社、2007年、p.131)

 

ふと目に入り、気になって他のものといっしょに注文した本でありますが、
読み始めたら無類に面白く、
止められなくなりました。
書名に「小説」とありますけれど、
いわゆる小説のイメージからは遠く、
評伝、あるいは評論、
といったほうがいいかもしれません。
ちょっと言いたい放題かな、
と思える節がないではないけど、
それは小島政二郎の性格の然らしむるところか、
とも感じられ、
だからこそ面白いともいえます。
文中「日誌」とあるのは、
『西遊日誌抄』のこと。
ドナルド・キーンさんの『百代の過客〈続〉』にも取り上げられている。

 

・旋回の空さそはるるごと探梅行  野衾