藤原定家の志
此集家々所称雖説々多 且任師説又加
了見 為備後学之証本 手自書之
近代僻案之輩以書生之失錯称有
識之秘事 可謂道之魔姓 不可用之
但如此用捨只可随其身之所好不可
存自他之差別 志同者可用之
嘉禄二年四月九日 戸部尚書 (花押)
于時頽齢六十五、寧堪右筆哉
【通釈】この『古今集』の家々に唱えている学説は、あの説この説と多いが、
一方では師の説に任せ、また一方では自分の判断を加えて、
後に学ぶ人の証本として備えておくために、
みずからこれを書いたのである。
近頃、
偏った考えを持つ人たちは、書写者の失錯をもって、
歌学の深奥に精通している人の秘事と称している。
歌道修業のさまたげと言えるだろう。
このような説を採用すべきではない。
ただし、
このような点についての賛成・反対は、
ただその人自身の好むところに従うべきものであって、
自派の説であるとか、他派の説であるとかいうことによって差別を設けてはならないもの
なのである。
志が同じ者は、
どの学派の説であろうと、
このよい方を用いるべきなのである。
嘉禄二年四月九日 戸部尚書 (花押)
この時まさに、老齢六十五、どうして筆をとって書くことに堪えられようか。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(下)』講談社学術文庫、2019年、pp.716-7)
片桐洋一さんのこの本の底本は、
冷泉家時雨亭文庫所蔵の藤原定家嘉禄二年自筆書写本『古今和歌集』(国宝)
によっており、
引用した文章は、その奥書にあるもの。
原文のあと【訓読】もありますが、
引用は【訓読】を省き、片桐さんの通釈にしました。
これを読むと、
藤原定家の心意気、志、熱情が感じられ、
とても八百年ほども前の、むかしむかしの人と思えない。
文中の「歌道」を「学問」にすれば、
いまの時代の学問にたずさわっている人々にも当てはまる気がし、
また、
藤原定家そのひとが、
ぐっと身近に感じられるように思います。
研究者でないわたしが、
そんなふうに感じられるのは、
ひとえに片桐さんの懇切丁寧な評釈によるものであって、
そこのところにも、
学問研究のひとつの意義と意味がある
のだと、
この本を通じて改めて感得できた気がします。
そして最後に、
定家の口吻が聴こえてくるように思うのは、
「于時頽齢六十五、寧堪右筆哉」
「この時まさに、老齢六十五、どうして筆をとって書くことに堪えられようか。」
・日一日古屋の庭の梅の花 野衾