さびしい少年の物語

 

渥美清は、あのタフそうな外見とは違って、
じつはいつも病気ばかりしている子どもだったという。
小学校も低学年の頃から、関節炎やら小児腎臓やらで、しょっちゅう寝てばかりいて、
ロクに学校へは行けなかった。
だから、
たまに学校へ行っても〝お客さま”だったし、
従って成績は極端に悪かった。
関節炎の痛みに耐えながら家で寝ていると、
家の外でカラスがぱっと飛び立つ影が障子にサアーッと映ったりする。
するとラジオのスイッチを入れたくなる。
こんな気持は健康な人たちには分って貰えないでしょうねえ、
と渥美清はつけ加える。
たしかにカラスの飛び立つ影が障子に映ることと、
ラジオのスイッチを入れたくなることとの間には直接の関連はないから、
分らないと言えば分らない。
しかし、
この情景描写ひとつで、
病いに寝ている子どもの孤独は鮮やかに理解できるし、
学校にも行けない淋しさに耐えながらラジオだけを友にして、
すがるようにそれに聞き入っている子どもの姿がくっきりと目に浮かぶ。
渥美清の話術の特色は、
こんなふうに、
理屈をぬきにして印象的な情景を描写するところにあり、
その情景ひとつで聞き手は彼の気持を理解できる、というところにある。
俳句のようなコミュニケーションと言うべきか。
そして、
これと同時に、
彼が演じている車寅次郎の話術の特長でもあることに改めて気づく。
(佐藤忠男『みんなの寅さん 「男はつらいよ」の世界』朝日文庫、1992年、pp.19-20)

 

先週の土曜日でしたか、
テレビで『男はつらいよ 旅と女と寅次郎』
をやっていました。
まえに観たことがあっても、なんとなく観てしまうのが『男はつらいよ』で。
マドンナは都はるみ。
そのまま演歌歌手として登場しています。
ただ、
さすがに名前は「都はるみ」ではなく「京《きょう》はるみ」。
まあ、
「京」も「みやこ」と読みますけれど。
公演を前に失踪した京はるみが旅先で寅さんに出会い、
意気投合。
寅さんは、京はるみが有名な演歌歌手であることに気づいたけれど、
そういうそぶりを一切見せずに、
淋しげなひとりの女性に寄り添い、やさしく声をかける。
また、
いつものことながら心底惚れる恋する。
そしてお決まりの失恋。
わたしが今回目をみはったのは、
京はるみが「とらや」を訪ねたときのこと。
まわりがみんなドヨめいて、
「京はるみだ!京はるみだ!京はるみだ!」
ドヤドヤドヤドヤ、ガヤガヤガヤガヤ集まってきた人たちを前にして、
とらやの縁側で京はるみが歌を歌う。
そのとき。
京はるみの歌う後ろ姿を、
寅さんが、とらやの家の部屋の中からジッと見据えている。
寅さんの顔のアップ。
その顔は、
映画のフレームから早くも抜け出し、
寅さんの顔を超え、
渥美清の顔を超え、
さびしい少年田所康雄の顔そのものであったと思います。
その凄み。怖さ。弱さ。強さ。
『男はつらいよ』のおもしろさの一端は、
こういうところにもあるのかと。
それは、
稀代の役者・渥美清を通しての、
闇をかかえざるを得ない人間と人間とのふれあい、
そこから生まれるちょっとした笑いであったり、哀しみであったり、
ホッとする温かみであったり、
そういうことかなと、
改めて思いました。

 

・はためくや鮨屋の幟夏来る  野衾