哲学とは何か

 

拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』に関する鼎談の折、
学習院大学の中条省平先生が
ジル・ドゥルーズの『シネマ』に触れられ、
そのことばが印象にのこりましたので、
さっそく読んでみました。
「シネマ1」「シネマ2」とあって、
1は「運動イメージ」、2は「時間イメージ」
2の最後の第10章「結論」に、
映画を論じることは哲学なんだということに関して、
ドゥルーズはこう言っています。

 

多くの人々にとって、哲学は「生成する」ものではなく、
出来合いの時空にすでに作られたものとして、
前もって存在している。
しかし哲学理論はその対象に劣らず、それ自体一つの実践なのである。
……………
映画の概念は映画の中に与えられてはいない。
しかしそれは映画の概念であって、映画についての理論ではない。
したがって、
真昼であれ真夜中であれ、
もはや映画とは何かではなく、
哲学とは何かと問わねばならないときが、いつもやってくる。
映画それ自身はイメージと記号の新しい実践であり、
哲学は概念的実践としてその理論を作らなければならない。
なぜなら
どんな技術的あるいは応用的(精神分析、言語学)、内省的な規定も、
映画そのもののもろもろの概念を構成するのに十分とはいえないからである。
(ジル・ドゥルーズ[著]宇野邦一/石原陽一郎/江澤健一郎/
大原理志/岡村民夫[訳]『シネマ2*時間イメージ』法政大学出版局、2006年、p.385)

 

く~っ。
でも。
分かったような、分からないような。
ともかく。
哲学が実践であり「生成する」ものであるという考え方に魅力を感じます。
哲学が哲学であるということは、
そこで語られていることがつねに開かれており、
いま、いま、
を開いていくことになるのだと。
道元禅師なら「而今」とでもいうところでしょうか。
哲学の本が、
難しいけど面白い、面白いけど難しい、それなのにやめられない止まらない、
カルビーのかっぱえびせん
なのは、
生きているいまこの瞬間に関わることだからなのでしょう。

 

・秋冷や空の下なるいのちどち  野衾