あなた方は、
言葉によって愛や悩みの感情に移し入れられる間は自分自身を不完全であると思って
いられるかも知れない。
しかし決してそんなことはいえないのである。
キリスト御自身ですらそのような意味の完全さはもち給わなかった。
「わが心いたく憂いて死ぬばかりなり」
(マタイ伝第二十六章第三十八節参照)
という彼の御歎《おなげ》きがそれを証拠立てている。
キリストすら言葉によってかくも悩まされ給うたのであって、
その御悩みの大いさは、
一切の被造物の経験する全ての苦悩が一個の被造物に集中して襲いかかる
ことがあろうとも、
キリストの嘗《な》め給うた苦しみには及ばないほどである。
(マイスター・エックハルト[著]相原信作[訳]『神の慰めの書』
講談社学術文庫、1985年、p.289)
言葉によって励まされ、背中を押され、生きがいを感じて、
ふつふつと勇気が湧いてくることがあるその一方で、
なにげない、
ほんのちょっとした言葉なのに、
頑迷で、自己中心的と感じられる言葉にいたく傷つくことがあります。
じぶん自身、
知らぬ間にそうしてしまっているかもしれません。
孤独は独りだからではない。
相手がいて、
言葉によって平らな地面にいきなり穴が開き、
孤独の底へつき落とされる、
というのが実際のよう。
そうなったら、
だれかに打ち明けるわけにはいかず、
気晴らしすることも叶わず、
まして、
傷つく言葉を発した人との対話を望んでも、
おそらく答えは見つからないだろうと思えるとき、
まずは、
目の前のなにか、
たとえば、切らなくてもいい爪を切ったり、周囲を二度、三度と見回し、
それから利休鼠の空をぼんやり眺めてみたり、
また、
冬の蜘蛛のように、
じっと息を殺してじぶんを守るぐらいしかできなくなる、
言葉はまさに両刃の剣です。
・ふるさとの川面群れ飛ぶ秋茜 野衾