思い出すことは

 

例えば、わたしが、とある町に滞在して、その街路を初めて歩いているとしよう。
そのとき、わたしの周りにある事物は、わたしに対して同時に、
持続するべく定められた印象を与えると同時に、
絶えず変化する印象も与えるであろう。
毎日わたしが見る建物は同じだ。
そして、
それが同じ建物だとわたしもわかっているから、
わたしは変わらずそれを同じ名で呼び、それが常に同じように見えていると思っている。
しかしながら、
長く滞在した後に、
最初の数年間の印象を思い返してみるとき、
わたしはそこに特異な、
曰く言いがたい、
そして特に言葉で表現することができないような変化が、
その印象のなかに生じていることに驚かされる。
長い間わたしの見続けた、
そしてわたしの精神に絶えず思い描かれてきたこれらの事物が、
わたしの意識生活から、何かを借りているのではないかと思われるようになる。
わたしが生きたようにそれらも生き、
わたしが年齢を重ねるようにそれらの事物も年老いた、
そんなふうに思われる。
それは必ずしも単なる幻想ではない。
なぜなら、
今日の印象が昨日の印象とまったく変わらないとしても、
知覚することと再認すること、初めて知ることと思い出すこととのあいだには、
何か違いがあるのではないだろうか?
(アンリ・ベルクソン[著]竹内信夫[訳]
『意識に直接与えられているものについての試論』白水社、2010年、p.126)

 

ベルクソンのこの感じ方、考え方は、プルーストのそれと共通のものであると思われます。
引用した文章のなかで、
とくになるほどと思わされたのは、
「わたしの意識生活から、何かを借りているのではないかと思われるようになる」
という一文。
毎日通いなれた町のなかの、とくに変りばえのしない建物で、
そこに入っていったり出てくる人と付き合いはなく、
また、
建物内に入ったこともないのに、
ある日、解体工事の知らせがでていて、立ち止まって読んでしまうことがあります。
ふと気が付けば、
わたしのほかにも告知の文面を読んでいる人がいて。
おとといと同じきのう、
きのうと同じきょう、
だと、なんとなく感じていても、
少しずつそこに時が降り積もり、ある日、目に見える形で変化が訪れる。
しみじみとした感懐に浸ることになります。

 

・坂上やしずか背高泡立草  野衾