離在せる心

 

ある師の次のような言葉はここに適用することができるだろう。
それは、
「心の貧しき人、
その人は神に万物を委ゆだねてしまったひとである。
すなわち神が万物を、
我々が未だ存在していなかった時保ち給うていたそのままの状態に保ち給う
のをよしとした人である、かかる人は幸いなるかな」
というのである。
かくのごときことは純粋に離在せる心のみのできることである。
神はどのような心によりも離在せる心に好んで在《いま》し給うことは、
次のようなことでわかる。
もしお前が、
「神はすべてのものの中に何を求め給うか」
と問うならば、
私は智慧ちえの書の次の個所を引いて答えるのである。
それは神が
「すべてのものの中に我は平安を求む」
といい給うているところである。
ところで全き平安はただ離在せる心以外には決して存在しない。
それ故に神は、
いかなる物いかなる徳の中においてよりも離在せる心の中に在ることを喜び給う。
(マイスター・エックハルト[著]相原信作[訳]『神の慰めの書』
講談社学術文庫、1985年、pp.202-3)

 

エックハルトを研究されている方が来社されることになりましたので、
手元にある本を読み返しました。
こういう箇所を読むと、
西田幾多郎や田辺元がエックハルトを好んで読んでいたことが分かる気がします。
また、
このごろお話を伺う機会の多い小野寺功先生がよく口にされる
「絶対無即絶対有」
の七文字ともひびき合うようです。
ごくシンプルなことを、
いわく言いがたいシンプルなセンチメントを、
シンプルさの境地を一切損なうことなく、
言葉で表現するとなると、
そのおののきのようなところに意を用いて、
かえってむつかしい文字を使わざるを得ないのかもしれません。

 

・此処かしこ故郷背高泡立草  野衾