量と質、ベルクソンのこと

 

例えば、今わたしがこの文章を書いているときに、近くにある時計が鳴ったとしよう。
しかし、
わたしの耳はぼんやりしていて、何回かの鐘の音を聞き逃した後になって、
時計の鳴っていることに気付いたとする。
当然、わたしは鐘の音の回数を数えてはいない。
しかし、それにもかかわらず、
わたしは少し注意を凝らして思い出せば、
鐘の音がすでに四回鳴ったことを知り、その後にわたしが実際に聞いた回数を加えて、
正しい時刻を知ることができる。
自分自身の内面に立ち戻り、
精細に、
今起きたばかりのことを問い直してみれば、
四回の鐘の音がわたしの耳を打っていたこと、
さらにはわたしの意識を揺り動かしていたことに気付く。
しかも、
それぞれの鐘の音が引き起こした感覚は、
一つ一つ横並びに並んでいるのではなく、
互いに混じりあい、
その全体にある一種独特の様相を与えており、
まるで音楽の一節を聞くようであったことにも気付く。
回顧的にすべての回数を知るために、わたしはこの楽節を思考によって再構成しようとする。
わたしの想像力が一つ、二つ、三つ、と鐘を鳴らしてゆく。
しかし、
四つ目の音をわたしの想像力が鳴らし終わらないかぎりは、
わたしの感性は、思考から相談されても、
全体の印象は質的にどこか違う、と答えるだろう。
感性は感性なりに、
鐘の音が四回続いて鳴ったことを確認していたのであるが、
しかしそれは一つ一つ数えあげるというやり方とはまったく違って、
そこに個別の事項を並置したイメージが介在することはない。
要するに、
それら四回の鐘の音は質として知覚されていたのであって、
量として知覚されたのではない、ということだ。
(アンリ・ベルクソン[著]竹内信夫[訳]
『意識に直接与えられているものについての試論』白水社、2010年、pp.123-124)

 

哲学の本はむつかしいけれども、
わたしの場合、もちろん翻訳者のおかげによってではありますが、
こういう文章に出くわすと、
なんとも懐かしく、
ふだん感じてはいるけれども、
なかなか言葉でうまく表せないことを代わりに言ってもらえている気になり、
そうそう、そういうことなんだよな、
と、
身を乗り出すようにして読んでしまいます。
こういう文章がきっかけとなって、
ふだんあまり思い出すことなく過ごしてきたのに、
俄かに思い出される諸々があり、
文章の力、味わいに打たれ、驚かされます。
プルーストが影響されたというのも分かる気がします。

 

・白秋を黒白猫の通りけり  野衾