そうなると、異なったふたつの自我が存在することになる。
一方の自我は、本来の自我が外界に投影された影絵のようなようなもの、
その空間的表象であり、こう言ってよければ、社会的表象である。
本来の自我に到達するためには、
反省的思索をさらに深めることによって、
われわれの内的諸状態を、絶えず生成途上にある、生きた存在として捉えなければならない。
また、
数量的計測になじまないものとして、相互に浸透し、
持続のうちにおいて継起するものとして、
等質空間のうちに並置される外的事物とはまったく異なったものとして、
捉えなければならない。
しかし、
われわれが自らをそのような状態で捉えることができる瞬間は稀であり、
それがゆえに、
われわれが自由である瞬間も稀である。
ほとんどの場合、
われわれはわれわれの外で生きていて、
本来のわれわれの色あせた亡霊しか、
純粋持続が等質空間に投影した幻影しか認知していない。
われわれの実存は時間のなかではなく、空間のなかで営まれている。
われわれは、
われわれ自身のためではなく、むしろ外的世界のために生きている。
われわれは思考するよりも、むしろ語っている。
われわれは「行為されている」
のであって、
自らの意志で行為しているのではない。
自由な行為とは、
自己の認識を取り戻すことである。
自由とは、純粋持続のうちにわが身を置きなおすことである。
(アンリ・ベルクソン[著]竹内信夫[訳]
『意識に直接与えられているものについての試論』白水社、2010年、pp.221-222)
小学生、また中学生のころ、
じぶんて何だろう、自由って何だろう、生きているってどういうことだろう、
みたいなことを、
「考えて」いたのではなく、
なんとなくぼんやり、疑問に「思って」いたような気がします。
はじまりの哲学。
しかし、
そういうことは、あまりにぼんやりとしていて、
まるで雲をつかむような話なので、
また、
どう言葉にしたらいいのかも分からないから、
友だちに話すこともないし、先生に尋ねることもありませんでした。
子どものころに、
ぼんやり、思っていたり、感じていたことを、
忘れずに持続のうちに温存しつつ、
それを、時を得て、じぶんが納得できるように言葉にする。
そこに自由があると、
ベルクソンさんは語ってくれているようで、
これが初めて
ではありませんけれど、
真の友を得たような気になります。
・ひかりの公園ひかりの枯葉散る 野衾