古今和歌集と紫式部

 

古今和歌集の694番は、

 

宮城野の本荒の小萩露を重み風を待つごと君をこそ待て

 

片桐洋一さんの通釈は、

 

宮城野の名物である本荒もとあらの小萩が、葉に置いている露が重いので堪えきれずに、
その露を落としてくれる風が吹くのを待っているように、
私はあなたをお待ちしていることです。

 

この歌に関し、
片桐さん、こんなことを書いています。

 

『源氏物語』桐壺の巻において、桐壺の帝が亡くなった更衣の母を弔問するとともに、
幼い光源氏を思いやって贈った、

宮城野の露吹き結ぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ

という歌は、あまりにも有名である。
「宮城野」「露」「風」「小萩」というように、
当該古今集歌のキーワードをすべて備えているとともに、
「宮城野」に宮中を、
「露」に帝の涙を、
「小萩」に光源氏の君を、
「風」に厳しいその人生の意を含ませているという、
まことにみごとな歌になり得ているのである。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(中)』講談社学術文庫、2019年、pp.712-714)

 

こういうところを読むと、
紫式部が古今和歌集をいかに読み込み、味わい、自家薬籠中のものにしていたか
が分かります。
古今和歌集に限らず、
中国古典もふくめ多くのものが流れ込み、
それが深く地下水となり、
豊かに『源氏物語』を育て浮かび上がらせたということでしょう。
それをひとつの作品に仕上げたところに、
紫式部の類まれな才能がありました。

 

・はたたがみ道来て道に迷ふかな  野衾

 

においについて

 

ちかごろ、においにつき、発見というと大げさですが、
個人的に気づいたことがありまして。
ひとつ目。
いつもの部屋で本を読んでいたときに、
家人が蓋の付いた陶器の容れ物をテーブルの上に置いていきました。
わたしはそのまま本を読みつづけていたのですが、
なにやらちょっと変な臭いがする気がした。
ん!?
もしや、
と気になったので、本を置いて台所へ行くと、
家人が「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
ほんのり香った匂いが、ガスの臭いに似ていたので、心配になって来てみたのですが、
ふつうに煮炊きしており、
ガスが漏れ出ているようなことはなかった。
???
はて。
もしや。
部屋にもどり、
テーブルの上の陶器の蓋を取ってみると、
塩らっきょう。
あ!
二度三度、
鼻を近づけてみたり遠ざけてみたり。
筋の見える塩らっきょうがあくまでも白く、きらきら輝いています。
なるほどなるほど。
食欲を刺激する季節の香の物ですが、
その匂いが空中にまかれ
薄くなると、
どうやらガスの臭いに近くなる、
わたしの嗅覚は、そのように感じたようです。
ふたつ目。
道で女性とすれ違うと、
ほのかに香水の匂いがするときがありますが、
このごろ幾度か、
ある匂いが鼻に止まり、
何かの臭いに似ている気がした。
なんだろうなんだろう、数日つらつら考えた。
きのう、ふたたびその匂いに遭遇し、
あ、
そうだ、カブトムシ!
って思いました。
子どものころ虫かごに容れ飼っていたカブトムシがありありと思い浮かんだ。
塩らっきょうもそうですが、
ある匂いが空中に散布され薄まると、
別の匂い、また臭いを、
きわめて個人的ではありますが、
まざまざと想起させることがあるようです。

 

・洗濯物しずか夏雲うごかず  野衾

 

生き物たちの棲むところ

 

コロナ前は割と頻繁に会っていた友人、知人と会えなくなって
けっこう時間がたちました。
この時期、
そのさびしさを、
まるで慰めてくれるように多くの生き物たちが現れます。
ここが山の上ということもあるでしょう。
筆頭は、
なんといってもタヌキ。
秋田にいた頃だって、
野生のタヌキを見ることは、そうそうなかった
のに、
この都会の真ん中でしょっちゅうタヌキに会えるなんて思いませんでした。
大きな尻尾の縞々の模様、
すぼまった口元、
ベランダを通っていくだけでなく、
この頃は外でも会うことがあります。
会えば、
「あっ! たぬき!」
とつい声が出てしまい、
すると、
ふり向いてこちらに挨拶をし藪の中へと姿を消す。
きのうはゆっさゆっさ、
アオサギが、
東の空から西へと飛んでいきました。
対抗するかのように、
西からカラスが東の空へ。
かと思えば、
メスのカブトムシが窓越しに飛んできた。
いつもの台湾栗鼠は姿は見えず声だけ。
さらにクモ、ハチ、トカゲ。
またカマキリ。
以前、
ムカデもけっこう現れて、
夜中に首の辺りがワサワサしてバッと手で払いのけたら、
それがムカデ、
ということが何度かあったっけ。
この生き物たちが、
ニンゲンの言葉はしゃべらないけれど、
存在そのものでよく慰めてくれます。

 

・鮨よりも青き風よぶ夏料理  野衾

 

藤原定家、14回!

 

四〇六 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも    安倍仲麿
四〇七 わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人にはつげよあまの釣舟  小野 篁
(数字は「国歌大観」歌番号)

「天の原」「わたの原」という類似の語句を持つと同時に、
仲麿と篁がともに遣唐使に関係のある人物であり、
本土を離れた土地から海上をへだてて都に思いを残して詠んだという共通性によって、
「古今集」にはこの二首が並べられているのである。
定家は、
生涯に少なくとも十四度は「古今集」を書写していることがわかっているから、
この二首の関連性はよく知っており、
その上で「百人一首」に採ったものと考えらえる。
こうして見ると、
「百人一首」には菅原道真、崇徳院をはじめとして、
流人とその関係者、
そして流人に準ずる境遇の人物の歌が多く採られていることにあらためて驚かされる。
極端ないい方をすれば、
「百人一首」は恋歌の多いみやびな詞華集であるが、
同時に流人の歌集という一面を持っている。
「百人一首」の中の、多勢の流人とその関係者の像は何を意味しているのだろうか。
それらの像をあつめ、
定家というレンズを通して焦点を一点にしぼると、
そこに一人の人物が浮かびあがってくる。
いうまでもなく、それは後鳥羽院である。
(織田正吉『絢爛たる暗号 百人一首の謎をとく』集英社、1978年、p.132)

 

個人的に、子どもの頃「百人一首」で遊んだことはなく、
わたしが実際に遊んだのは、
仲良くしている近所の姉妹が小さい時(いまは二人とも大学生)に、
「百人一首」を拙宅に持ってきてくれたときぐらいです。
いま思えば、
姉妹の無心に遊ぶ姿をふくめ、
日本の古典に気持ちが大きく傾いていく一つのきっかけでした。
「百人一首」が名歌をただ並べたものでないことは、
田辺聖子さんの『田辺聖子の小倉百人一首』
を読んだとき以来、
たびたび感じてきましたが、
織田正吉さんのこの本を読んでそれが決定的になりました。
歌一首一首の作者は別々であっても、
「百人一首」は、
藤原定家が編むことによって新たな意味をもちえた一つのまとまった作品集である
と気づかされます。
「古今集」を十四度も書写していればこその、
超絶的離れ業と言えるでしょう。

 

・夢うつつ閑の音きく午睡かな  野衾

 

超絶技巧の編集が光る「百人一首」

 

これまでの「百人一首」の評釈や鑑賞の方法が一首ずつの評釈や鑑賞ではあっても、
「百人一首」のそれになっていないのは、
共通の詞句によって結ばれている歌を連鎖したかたちで捉える
ことに気づいていないからである。
「百人一首」の中に、
一首単独では鑑賞に耐えない歌が混っているのは、
その歌がおそらく他の歌との関連によって別の意味や価値を持つからであろう。
「百人一首」はこれまで
あまりにも一首ずつの内容や意味を中心に考えられすぎてきた。
それは和歌の観賞ではあっても、
「百人一首」の見方としてはまちがっている。
定家が百首歌として、
しかも本歌取の技法を準用して選歌した「百人一首」の正しい見方は、
百首全体をもちいられた言葉において捉えるということである。
契沖以来の古ぼけた顕微鏡を捨て、
「百人一首」という詞藻の森を上空から鳥瞰ちょうかんすれば、
思いがけない視野や景観がひらけそうな予感がする。
(織田正吉『絢爛たる暗号 百人一首の謎をとく』集英社、1978年、p.60)

 

伊藤博さんの『萬葉集釋注』で、目にある鱗が落ちた気がしましたが、
なにがいちばん衝撃だったかといえば、
歌集というのは、
一首ずつの観賞もさることながら、
なぜその歌を、
どういう理由から選び、
どういう意図に基づいて並べたかを見ることによって、
一首ごと丹念に見ていくのとは別の視野が開けてくるということでした。
万葉集の場合は、
大友家持の編集の技が利いているわけですが、
古今集の場合は、
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の、
とくに紀貫之の発想によって集全体が色付けされているようです。
たとえていえば、
これまで、
名所旧跡を歩きながら愛でてきたのを、
ドローン撮影によって俯瞰して見てみる。
そうすると、
歩きながら眺めていては、おそらく絶対に気づかないような発見に、
アッ!という驚きとともに遭遇する、
そういうことかと思います。
言葉は、
もちろん物、事をつかむという本来的意義がありますが、
それだけではない、
遊びの領域が必ずあって、
歌集の編集者は、
それを人知れずやっているようです。
言葉はまた、
孤独をいやす最高の遊び道具、
ということでしょうか。
その最たるものが「百人一首」の藤原定家である、
そのことをこれでもかと示してくれたのが、
織田正吉さんの上記の本。
田辺聖子さんが絶賛したのも宜なるかな。

 

・丘の辺の木々の葉裏の清々し  野衾

 

こんな碑も

 

きのう紹介した道標は四基ありまして、
調べていませんが、
かつて別々の場所にあったのを今のところに集めたのではないかと思われます。
四基の道標のそばに
「程ケ谷宿お休み処」があり、
時間が限られていますが、
お茶を飲めるようになっていたはず。
きょう紹介するのは、
文化十一年(1814)に建てられたもので、
正面に、

 

程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花   其爪《きそう》

 

と刻されています。
ていうか、
そう刻されていると、説明板に書いてあります。
そう刻されてあると知って、石が凹んでいるところをゆっくりなぞれば、
たしかに、そのように読むことができます。
さらに説明板によれば、
句碑を兼ねた道標は珍しいそうで、
また、
作者の其爪は江戸の人で、河東節《かとうぶし》の名家の一門なのだとか。
ところで、かつお節ならぬ河東節とは何ぞや。
ネットで調べたら、
三味線音楽の一種目で江戸節の一つ。
享保二年(1717)二月に十寸見《ますみ》河東が
江戸市村座で「松の内」を語ったのをはじめとする、
とありました。
これまた知らなかった。

 

・矢の如し光陰いまぞ栗の花  野衾