宿題

 

このブログ、楽しんで書くときもありますが、
いつでも、
というわけにはいかず、
しかし、
だれから頼まれたわけではなく、
幾つかの理由から書くことの意味があると信じ、
じぶんで決めたことなので、
悶々しながら書くときもあるけれど、
してみると、
自らに課した宿題みたいなものかもしれません。
宿題といえば、
わたしは、
対談や鼎談、座談会の折に、
事前にプロットを用意し参加される方にお見せし、
打ち合わせをするようにしていますが、
考えてみれば、
これを作成するのも、
自らに課した宿題のひとつ。
また、お話しくださる方への礼儀だと考えています。
プロットができ、
打ち合わせが済むと、
六割がた、対談、鼎談、座談会は終わったようにも感じられ。
あとは本番で、
相手の方の話に耳をかたむけ、
相手の方の表情に同機しながら自由に遊ぶだけ。
今月七日(日)に、
教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』の訳者お三方と
座談会を行うことになっています。
テーマは、
「「悪の凡庸さ」とリーダーシップ」
内容は、
後日『図書新聞』に掲載予定。

 

・図書館を出でてとつぷり月おぼろ  野衾

 

母の同じ話

 

週に三回、とくに用事がなくても、
ご機嫌うかがいを兼ね、秋田の家に電話を入れます。
先日こんなことがありました。
電話には、
居れば必ずといっていいほど父が出る
のですが、
その日は母が出て、
かかりつけの病院に入った折、
いつも診てもらっている院長先生から、
息子たち(わたしと弟)のことを訊かれたと言い、
声が弾んで、
それはそれは嬉しそうでした。
「そうか。そうか」
とだまって聴いて、
それから電話を切りました。
つぎに電話をしたとき、
この日も、父がちょっと離れたところに居たらしく、
母が出た。
そして、
二日前に聴いた話を、
また嬉しそうに語り始めました。
若い時ならすぐに、
「かあさん、その話、このまえ聴いだよ」
と遮っていたかもしれません。
いや、
きっと、そうしていたでしょう。
ところが、
母があまりに嬉しそうに話すので、
遮るタイミングを逸した、
というよりも、
嬉しそうに話す母の声を聴くのが、嬉しく、また楽しいので、
だまって聴いて「そうか。そうか」
と相槌を打ちました。
情報としては繰り返しでも、
それを話すときの体と心は日々に変化します。
このブログにしても、
遡って見ればずいぶん繰り返しが多い。
それだけ深く心に残っているということでしょう。
ましてそれが母の語る話となれば
味わいは一層深く、
華やぐ母の心に寄り添い共感を覚えます。

 

・高速道時は後ろへ花万朶  野衾