こまめに

 

よく行く駄菓子屋に寄りましたら、
店番の、いつものおばあちゃんがいました。
煎餅と餡蜜を買っての帰りしな、
どちらからともなく世間話を持ち出し、
ほんのしばらく打ち興じるのがこのごろのならい。
「コロナコロナと騒いでいたら、
こんどは熱中症でしょ。
たいへんな世の中ですねー」
と、おばあちゃん。
「そうですねー。熱中症で緊急搬送されている人が増えているようです」
と、わたし。
「水分補給がだいじといいますけどね」
と、おばあちゃん。
「齢がいくと、体感がにぶくなるので、
時計を見て定期的に水分を摂るようにしたほうがいいみたいですよ」
と、わたし。
「そうなんでしょうね。
こまめに水分を摂らないといけないんでしょうが、
わたしは、
こまめに忘れますからね、困ったものです」
と、おばあちゃん。
ここで、わたくし大笑い。
「こまめに忘れる、ですか。面白いですね。それ、いただこうかな」
と、わたし。
「ほんとにこまめに忘れるんですよ。ははは」

 

・レンズ避け一目散の蜥蜴かな  野衾

 

直(じか)について

 

東京大学出版会が発行しているPR誌『UP』8月号に、
おもしろい記事が載っていました。
Kというイニシャルがありますから、
東京大学出版会の編集者だろうと思われます。
記事のタイトルは、
「対面で議論することの清々しさ」
久しぶりの研究会だったそうですが、
主催者の尽力によって、
参加者の間の距離をとり、それぞれの前にアクリル板を設置、
会場も、
参加人数に比して大きな場所を使用するという万全の態勢がとられたのだとか。
Kさんは、
そのときの様子と感想を次のように記しています。

 

研究会での参加者の方々のやり取りを聴いて、そして観ていて、
対面での議論はオンラインと比べ、
こんなにも情報量が多く、
しかし疲労度は小さいものなのだ、
ということを改めて実感した。
議論されている時の声のトーン、リズム、顔の表情、
そして発言されていない方々の姿勢、
さまざまな反応、同時に笑いがおこる時のスムーズさ等々、
オンラインの時にも同じようなことが起こっているはずなのに感じ取りにくいこと
の数々を身体全体で受けとめることはこんなに興奮する

ことだったのかと、
実に楽しい気分で二日間を過ごした。

 

この文章を目にしたとき、
2009年に亡くなられた演出家の竹内敏晴さんのことを思い出しました。
竹内さんは生涯「直(じか)」にこだわりました。
「直(じか)」がいかに人間を生き生きさせ、
直(じか)によって人は生きる、
竹内さんは、
そのことを演劇を通して証したのだと思います。

 

・その頃を思い出してる曝書かな  野衾

 

詩経の恋愛詩

 

白川静さんの文章は、漢文調といえばいいのか、
スッキリしていて読んでいて心地よく、
すらすらとはいきませんが、
お盆休み中、
けっこう読み進みました。
すると、
以下に引用するような箇所に出くわし、
謹直な白川さんの隠れた一面に触れたようで、
うれしくなりました。

 

全体的にいえば、これら小雅中の恋愛詩は、
様式的には最も民謡に近く、その発想においても感情においても、
大部分は国風と殆んど異なるところのないものである。
恋愛詩はもともと庶民的な発生をもつものであり、
貴族社会においては、祝頌詩から展開した恋愛詩を考えることができるとしても、
その社会の感情生活そのものが、
庶民社会ほどに解放的でありえなかったし、
権力や財力を欲望達成の手段とするような社会が、
恋愛詩のよき地盤でありうるはずはなかった。
(『白川静著作集10 詩経Ⅱ』平凡社、2000年、p.637)

 

・馬冷やす若き父の背見えにけり  野衾

 

箱根みやげ

 

ある方から『温泉たまごポテトチップス』なるものをいただきました。
下の写真が、その袋。
なんと言いますか、
ズバリ、ドーンの圧倒的迫力!
味はといえば、
ま、まさに温泉たまご。ポテチなのに…。
人工的なものが入っていないようで、
クセになりそう。

弊社は、本日より営業再開です。
よろしくお願いします。

 

・藪中に川魚居て馬冷やす  野衾

 

デザインの強度

 

先週8月8日(土)の毎日新聞に春風社の本が取り上げられました。
取り上げてくださったのは、
装幀家の菊地信義さん。
取り上げられた本のタイトルは、
16世紀後半から19世紀はじめの朝鮮・日本・琉球における〈朱子学〉遷移の諸相
菊地さんは、
この本の装幀について次のようにコメントしています。
「長々しい書名に籠(こ)めた著者の苦心を、
赤と黒の箔(はく)押しで解決したカバー。
風合いのある紙へ濃密な箔色が食い込み本の物質感を顕示する。
デザインの強度、全開。」
装幀したのは、長田年伸さん。
以前、
春風社の編集者としていっしょに仕事をした長田さん。
退社後、自身でさらに勉強を重ね、
いまは独立して仕事をしていますが、
このように高く評価された
ことが我がことのようにうれしく思います。

さて弊社は、
8月12日(水)~16日(日)を夏季休業とさせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。
どちら様もどうぞご自愛くださいませ。

 

・早苗饗の本家の庭の広さかな  野衾

 

歴史への光源

 

真の歴史的時間とはけっして単なる出来事の時間ではない。
むしろ歴史的時間についての特有の意識は、
考察という光源からに劣らず
意欲とその遂行という光源からも放射されてくるのである。
ここでは
観想という契機が活動という契機と解きがたく絡みあっている。
つまり、
観想は活動によって、
そして活動は観想によって身を養っているのだ。
(カッシーラー[著]/木田元・村岡晋一[訳]『シンボル形式の哲学 三』
岩波文庫、1994年、p351)

 

個人の歴史も集団の歴史もカッシーラーのいうとおり、
観想の営みだけでなく、
意欲とその遂行の光源から光を当てることにより
ふかくその意味を開示するものなのだろう。

 

・町外れ社をつつむ蟬しぐれ  野衾

 

一気呵成に書く

 

ふるさと秋田の新聞に月1ぐらいのペースで原稿を書いていますが、
これぐらいのペースだと、
うんうん、うなされることもありません。
四年前、
宮城の新聞社から頼まれたときは、
週1でしたから、
夜中にガバと起きたりすることがしばしばで、
その緊張度といったら並大抵ではありませんでした。
が、
いま思えば、
それもいい経験でした。
かつても今も、
たとえばこのブログの文章でも、
まずは一気呵成に書き上げます。
一気呵成ということがないと、じぶんで読んで面白くない。
一気呵成に書いた後、
固有名詞や年代、引用文、誤字脱字、
字句の使い方など、
細かいところを入念にチェックします。
チェックの方が時間は圧倒的にかかりますが、
一気呵成の土台があれば、
文章の個性は消えてなくなることはないと信じます。
そうやって書いた文は、
記憶の海にゆっくりと沈んでいくようです。

 

・梅雨空に飛び込むごとく烏かな  野衾