とがの先生

 

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、
倉に取りいれることもしない。
それだのに、
あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。
野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。しかし、
あなたがたに言うが、
栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 

わたしが横須賀の高校に勤めていたとき、
先輩の教師にとがの先生という方がおられました。
たしか栂野、
と書いたと思います。
キリスト教主義の学校でしたから、
聖書をひらく機会が多く、
たとえば教師が順番で担当する朝の放送礼拝では、
それぞれ気に入った聖書の箇所を読み上げるのがならいでした。
とがの先生はよく上の文章を読み上げられた。
「マタイによる福音書」第六章26-29節。
わたしも好きな聖句ですが、
とがの先生には及ばなかった。
読み上げる頻度がちがっていました。
というか、
先生がほかの聖句を読み上げたことを思い出せません。
いくらなんでも、
そこだけということはなかった
と思いますが、
とつとつと語る先生のことばは質量を伴いひとつひとつ刻まれるようなもので、
その声といっしょに鮮やかによみがえります。
なぜそれをいま思い出したのか。
季節が巡り、
空をたのしむ時を迎えたからかもしれません。

 

・新涼や朝の光のやわらかき  野衾