二而一

 

・雲立ちぬ天に届けの放屁かな

新井奥邃を読み解く幾つかのキーワードの一つに
「二而一」がある。
二にして一。
分かるようで分からない。
いただいて体得するしかないような字句。
ところで、
飯島耕一先生に導かれるようにして、
アンドレ・ブルトン著/生田耕作訳『超現実主義宣言』を読む。
その第二宣言冒頭に次の文言がでてくる。
「生と死、現実と想像、過去と未来、
伝達可能なものと伝達不可能なもの、
高いものと低いもの、すべてが
そこから見るともはや矛盾したものとは感じられなくなる
精神の一点が存在するように思えてならない
のである。
ところで、この一点を突きとめたいという希望以外の動機を
超現実主義的活動にたいして求めても、
それは無駄というものである。」
奥邃の「二而一」を説明している箇所かと見紛うが、
そうではない。
これは超現実主義、
シュルレアリスムとは何かを端的に説明している箇所だ。
飯島先生は若き日に、
シュルレアリスムを浴び、研究し、詩を書いた。
その後、先生は江戸へ留学(!)
いただいた中に、
「江戸へ留学した成果です」と記された本もある。
奥邃を読み解くのに、
シュルレアリスムは有効に作用しそうだ。
翻って、
その線で詩を読むことも楽しい。

・蝉鳴くやおもひさらふて庭を掃く  野衾

飯島先生からの手紙

 

・夏の朝別れしひとの夢見たり

親しくさせていただいていた
飯島耕一先生が亡くなられて九か月が経った。
安原顯さんと中条省平さんが定期講師を務める創作学校で
お目にかかったのが最初だから、
二十一年前になる。
一度だけの講演を聴講し手紙をお送りした。
ご返信に添えられ私家本の
『バルザック随想』をいただいた。
有難かった。
六年後、
春風社を起こしてから、
PR誌「春風倶楽部」に原稿を寄せていただき、
さらに
『ヨコハマ ヨコスカ 幕末 パリ』を
弊社から出させていただいた。
その後、
新井奥邃に関心を持ってくださり、
数篇の論考を雑誌に発表されていた。
その都度、記述に誤りがないか手紙を寄せられた。
ご著書を十冊ほど先生からいただいたが、
このごろ詩への興味がわいてきて、
先生からいただいた本を
棚から出し改めて読んでいる。
そのうちのある本に、
原稿用紙に綴られた手紙が入ってい、
文章の最後に、
ドイツ文学者の種村季弘氏のことが記されている。
その言葉と字配りから先生の口調が懐かしく思い出される。
親しい友の死から九年間、
先生は寂しい思いをされていたのだろう。
昨日、
社員のY君のご実家から会社宛に桃が送られてきた。
Y君は岡山出身。
桃を見、
同じ岡山出身の飯島先生を思い出した。

・蝉しぐれ頭上になして降り止まず  野衾

外国人

 

・電車行く家路公園蝉しぐれ

暑いので蕎麦屋へ行った。
暑いので、
冷たい蕎麦と細打ち饂飩がならぶ
合盛りせいろにしようと思っていたのに、
気が変り、
わかめ饂飩定食にしました。
店に入ってすぐの卓に陣取ったわたしのほかに客は一人。
三人目の客は青い目、
をしていたかどうかは
定かではありませんが初老の外国人。
座敷の方へ近づいていった。
大将すかさず、
「靴を脱いでいただくことになります」
が、
外国人、
近づいただけで
最初から座敷に上がるつもりはなかったらしく。
座敷手前の卓に向い、
大きなお尻を梟のように細め
ちょこなんと座った。
お茶を運んで女将さん「なんにいたしましょう?」
外国人一言も発せず、
ごにょごにょズボンの右ポケットから
小さな紙切れを取り出し、
女将さんに手渡した。
女将さん、
紙切れを身から離して目を細め、
「ああ、かもなんそばですね」
外国人、にっこり。
「どなたか書いてくださったんですね?」
外国人またにこり。
その後はどやどやと客が入ってき、
わたしは自分のわかめ饂飩定食に集中した。
食への集中度がわたしは高い。
ご飯少なめを頼めばよかったと思えど、
それは後の祭りで。
ん?
さてと。
外国人は。
食べ終えたのか。
見れば外国人、
やおら勘定を済ませ、
にこにこと顔をピンクに染め、
わたしの横をすり抜け
静かに目立たぬように店を出て行った。

・傷痛し傷まぬ傷のなかりけり  野衾

詩と出会う

 

・出てみれば灯下鳴かずの蝉ゐたり

阿部公彦『詩的思考のめざめ――心と言葉にほんとうは起きていること』
は面白かった。
その本に印象深く紹介されていたので、
つづけて小池昌代編著『通勤電車でよむ詩集』を読む。
古今東西の名詩を紹介した
一九二ページ新書版の小さな本。
「人と詩は、どのように出会うのだろう。
わたし自身を振り返ると、
誰かの書いたこの一篇に感激したというわけでもなかった。
そのような明白な意識以前に、もう、
詩と出会っていたという感覚がある。」
と、
「次の駅まで――はしがきにかえて」に書いてある。
『詩的思考のめざめ』にも引用されていた。
詩をそんなふうにとらえるのは、
肩の力が抜けたようで気持ちよく、
また、
小学校の行き帰り、
小学校に上がる前の時間を懐かしく思い出せるから、
ありがたい。
そんなこころでいると、
そんなこころに触れてくる映画が目の前に現れる。
『フェリーニのアマルコルド』は、
ふわふわと白い綿毛が舞い、
待ちに待った春がやってくるシーンから始まる。
木に登り「女が欲しい! 女が欲しい!」と叫ぶ男あり。
大きな胸と尻を持つ煙草屋のおかみさん。
シャッターを下ろした部屋で少年ティタは
太ったおかみさんを抱えあげる、二度、三度。
おかみさん、
牛の乳のような胸を出し、
ティタにふくませる。
「吹くんじゃないよ。吸うんだよ」
吹いたのは、見ていたわたしのほうで。
一本の太い筋はないけれど、
印象深いエピソードがちりばめられ、
全編詩魂に満ちている。
性の磁場にとらわれるまえ、もとい、
性をふくんで
しかしそれだけでない磁場の詩を読み、
そんな映画を、話を、人に、
見たい聞きたい会いたいと思った。
この映画、
詩を読むようにこれから何度も見るだろう。

・そんなことしてはいけない夏休み  野衾

 

・夏雲や本の表紙に移したし

雲の詩といえば、
山村暮鳥の「雲」がある。

おうい雲よ/いういうと/馬鹿にのんきさうぢやないか

子どものころ、
テレビで「巨人の星」を見ていたら、
星飛雄馬の初恋の相手、
山の診療所に勤めている美奈さんが
夕空の雲を見上げ、
この詩を口ずさんだ。
とても印象的なシーンだった。
薄幸な星飛雄馬の初恋の相手に、
子どもながら
私も恋をしていたのでしょう。
あまやかだけど、
切ない。
雲と虫を見ていると、
時を忘れ、
歳を忘れる。
半ズボンを穿かなくなり
わたしは
大人の仲間入りをしたけれど、
雲を眺めて呆とするうち、
いつの間にか半ズボン姿になっている。
おうい雲よとよんでいる。

・夏雲を見上ぐ太郎となりにけり  野衾

お盆

 

・解られずやることをやれ夏の空

お盆が近づいてきました。
ふるさとの友人からメールがあり。
正月は正月でわくわくしますが、
お盆が近づくこのころの気持ちは格別で。
秋田県一日市(ひといち)の盆踊りの歌詞に、
「盆の十三日正月から待ぢだ」
の文句がありますが、
正月からというのは少し大げさな気もしますが、
分からないでもない。
一日市の盆踊りを、
近くなのにまだ見たことがなく、
一度見てみたい。
お盆となるとどうしても
あの世のことを考える、
というよりもふわりするりと思っている。
この世とあの世ということが、
ほかのときならなんとなく他人事で、
なにやら抽象的でもあるのに、
この時期になると、
観念が足下に触れてやってくるとでもいうのか。
ほとんど毎日、
亡くなった祖父母のちいさな遺影の前で
鉦を鳴らし
手を合わせていても、
なかなか姿を現してくれない声を聞かせてくれないのに、
この時期になると、
近づいてきて声をかけられる。
ああそうだよ。
んだよ。
んだて。
んだんだ…。
物忘れが激しくても
人の顔は忘れない自信があるのに、
ふるさとに帰り
知らない顔に出くわすと、
ああこの人は他所から来た人なんだと思うけど、
他所とはこの世の他所なのか
はたまた、
なんてね。
ともかくも、
ふだんと違う、
たとえば墓の裏にだって
滑っていく気がするよ。

・そこに居て何が見えるか夏の雲  野衾

梅雨明け

 

・梅雨なれば室外機より川流る

関東・甲信も梅雨明けしたと、
松村正代さんが笑顔で言っていました。
「首都圏ニュース845」今週は、
美人だけども地味な松村さんです。
性格も良さそうだし、
ニュース原稿を咬むことも少ないし、
いいのですが、
週交替ということもあり、
どうしても派手な上條さんと比べてしまいます。
ところで守本奈実さんは、
このごろとんと見なくなっていましたが、
休日テレビを点けたら奈実ちゃんが、
もとい、
守本さんがでていて、
つい大声で「あ。奈実ちゃんだ!」
と叫んでいました。
そうか。ニュース7にでていたのか。

・さいはひやカール・ブッセの雲の峰  野衾