・山道を埃落として梅雨晴間

源氏物語を読んでいるうちに、
文字言語よりも音声言語に興味が移り、
たとえば月はなぜ月か、
夜空に光るアレを
なぜ「つき」と呼ぶようになったのか、
そんなことがこのごろどうも気になります。
アルセーニエフ作、
黒澤明監督の映画『デルスウ・ウザーラ』において
デルスウは、
太陽は一番目に偉い人、
月は二番目に偉い人、
とたしか言っていたように記憶しています。
それからの連想で。
「二番目に偉い」は
「次に偉い」とも言い換えられますから、
次(つぎ)→月(つき)か?
ん~、ちょと無理がある。
やはり、
月の満ち欠けが関係しているのでは。
だんだん太って満月となり、
だんだん欠けて終(つい)に見えなくなってしまう。
その「終に」の感じは「尽きる」にちかい。
ものがだんだん減って終に尽きる。
尽きるから月、
これかな。
また今回の源氏は、
新潮日本古典集成で読んだのですが、
「しみつく」に頭注が付されており、
「男女が深い仲になる」とありました。
この「つく」は、
漢字で書けば「付く」か「着く」でしょうけれど、
音の共通性は、
身体的に
何らか重なると見ていいのではないか
という気もします。
そうやって
ことばを口にのぼせてみると、
居ながらにうずいたり、
かろみが増したり
雨に降られ
風が吹き抜けてもいくようです。

・ゴールしてひょいと垣根の花ざくろ  野衾