わしも書いてみた

 

 宇治十帖無言の空の蝉時雨

NHKBSの「空海 至宝と人生」が面白い。
三夜連続の昨日が二日目。
空海の書についてやっていた。
書家の石川九楊なんかが出ていたが、
家人曰く「この人えらそうで嫌い!」
それはともかく、
空海の書いた飛白体の字は楽しい。
ひらひらへにゃへにゃはらほろひれはれしていて、
ぴよーんと飛んで行きそう。
なので、わしも書いてみた!
それが下の字「梵」
サインペンですけど。

 川沿いに歩いて十分茂り中

ゆ、指が

 

 浜辺にて迷子になりし夏休み

この休日、
外は暑いので鍼灸院へ行ったほかはどこへも行かず、
エアコンを除湿にし、
ひたすら屋内で本を読んでいました。
おかげで、
読みかけの本、先週買ったばかりの本と、
ずいぶん読むことができました。
と書くと、
平穏な休日だったようにも思えますが、
危なく大怪我をするところでした。
本を読んでいて気になるのが音。
非常に気になります。
聴こえるか聴こえないかぐらいの小さい音ほど気になります。
ジジ、ジジ、ジジ、ジジジジ……。
エアコンが鳴っているようです。
折りたたみ式のパイプ椅子を持ち出し、
上に上がってエアコンの箱に触れると音はやみます。
ん。鳴らなくなったぞ。
椅子から下り、
椅子を片付け所定の位置に座るや、
またジジ、ジジ、ジジ、ジジジジ……。
お前はセミか、ったく。
だんだんイライラしてきました。
またパイプ椅子を持ち出し上に上がり、
電源を切り外枠を外してみました。
どこと言って気になるところはありません。
外枠を嵌め電源を入れ、
椅子の上に上がったまましばらくすると、
また、ジジ、ジジ、ジジ、ジジジジ……。
おかしいな。
この辺から音がしてくるな。
バリ、バリバリンッ!!!
あ! エアコン停まる。なにか落ちた! 指が。指が。
強烈な痛みが指先に。
ゆ、指が取れた!!
さっと見る。あ。
付いていた。
よかった。よかったよ。ほ~。
指が付いていた。
危ねえ危ねえ。ああ危ねえ。
指が絶対もげたと思いました。
すみません。神様、もう絶対しません。
絶対しませんから、ごめんしてください。
ああびっくりした! 怖かった!

写真は、もげた羽根。

 竿灯やうつつか父の肩車

秋きぬと

 

 エレベーター壊れたままは節電か

朝、窓を開け空気に手をかざし、
ひんやりしていたら窓は開けたまま。
来年はそろそろ替え時の網戸も開け放ちます。
西側の玄関ドアを20度ほど開け、
下にストッパーを挿し込みます。
すると風が一気に入り込み、
廊下を通って東の窓へ抜けていきます。
いいなあ。
気持ちいいなあ。
夏が終って秋が来るというのではなく、
夏が薄くなって秋色がだんだん濃くなるというのでもない。
夏の中に秋が微かに潜んでいて、
大空を夏だとすれば、
宙をつんざく一尾のトビウオが秋で、
それが頬をかすめて水に入り泳いでいく。
跳ねるトビウオたちの数が増し、いよいよ秋が来る。

写真は、なるちゃん提供。

 夏休みごろんと廻り本を読む

楽しむ者

 

 八街や青空の下草茂り

『クジラ解体』の写真家・小関与四郎さんから
お借りしていた原稿をお返しに、
スタジオのある横芝へ行ってきました。
小説の原稿で四百字詰め原稿用紙にして五三〇枚!
読むのにも時間がかかりましたが、
半分を過ぎた頃からぐいぐい引き込まれ、
最後は涙なしには読めませんでした。
最近の、よく言えばグローバル、
けちをつければ、
どこの国のどういう生活に根ざした話なのか分からない、
頭でっかちの、
つるんとしたファストフードのような小説ではありません。
小関さんはこれを、三十年ほど前に書き起こし、
これまで四度書き直したそうです。
骨太の深い小説です。
読みながら、
表現者として生きてこられた小関さんの人生に思いを馳せ、
宮本常一『忘れられた日本人』中の「土佐源氏」、
ショーロホフ『静かなドン』を思い浮かべたりもしました。
帰宅後、テレビをつけたら、
「たけし☆アートビート」をやっていました。
ピアニストの辻井伸行さんとの即興のコラボは、
うきうきとした楽しさがこちらに伝わってくるようでした。
小関さんの小説のことをずっと考えていましたから、
なおさら二人の姿に魅せられたのかもしれません。
子の曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
『論語』の言葉を思い出しました。
「楽」の中身が大事だと思いますが、
まこと「楽しむ者に如かず」と合点が行きました。

 九十九里入道雲の立つを見ゆ

意外!

 

 マンションのドア開け放ち秋を呼ぶ

暑いので、
ココイチ(カレーハウスCoCo壱番屋)に
カレーを食べに行きました。
正午前ですから、まだそんなに混んでいません。
カウンターに座り、
期間限定のチキンと夏野菜カレーを注文しました。
トッピングにイカフライはいつものこと。
量はふつうで、辛さは1辛。
と、
わたしから二つ席を空けたドア側の端にサラリーマン風の男性が座り、
ビーフカレーの3辛、量はふつうを注文しました。
むむ、3辛か(汗)
おぬし、なかなかやるな…。
3辛はまだ食べたことがありません。
と、
ふう~っと汗の臭い。
見れば、大柄なとび職風の色黒ガテンお兄さんが、
わたしの隣にピタリと座りました。
髭まで生やし、それがモミアゲまでつながっています。
ニッカボッカを穿いています。
ちょっと怖そう。
この人一体なにを注文するだろう。
興味が湧きました。
おねえさんが注文を取りに来ました。
「ご注文をうかがってよろしいですか?」
色黒ガテンお兄さん、言下に、
「カツカレー、甘口、大盛り」
え゛え゛え゛え゛え゛!!!
そんなに色黒で汗臭くて髭まで生やしてニッカボッカなのに、
甘口なの?
わたしの顔に一瞬、
そのような驚愕の表情が浮かんだかもしれません。
気のせいかも分かりませんが、
ガテンお兄さん、
キッとわたしを睨んだようでした。
「甘口じゃ悪いかよ…」
いえ、そんなことは決してございません。
ただ、ちょっと意外な感じがしたものですから。
「カツはトンカツでよろしいですか?」
とのおねえさんの質問に、
ガテンお兄さんは微かに首を縦に振りました。
わたしは下を向いて自分のカレーをひたすら食べていました。
なんだか嬉しくなりました。
程なくして、
またおねえさんがやってきました。
「カツカレー甘口大盛りです」
ガテンお兄さん、ジッと皿を見、
少しだけ微笑んだようでした。
そして今度は脇目もふらず、一心不乱に、
カツカレー甘口大盛りに向かいました。

下の絵は、わたしが描きました。

 坂道を上り切ったら秋の風

斎藤喜博

 

 ひっそりとシンクの中の胡瓜かな

三十年前、横須賀で教師をしていた頃、
毎朝、国土社から出ていた『斎藤喜博全集』を、
片っ端から読んでいた時期がありました。
教師になりたてのことで、
自分が望むような授業ができずに苦しんでいましたが、
斎藤さんの本を読むと、
不思議に元気が出ました。
よし、頑張ろう!
他の本にはない力を感じました。
わたしが当時置かれていた状況にも左右されたかもしれません。
新井奥邃は、
聖書は仕事師の手帳のようなものだと喝破しましたが、
私にとって斎藤さんの全集は、
まさに朝ご飯のようなもので、
お蚕さんが桑の葉を倦まず弛まず食べるのに近かった気がします。
その後、わたしは全集を売り学校を辞め、
東京の出版社に入りましたが、
数年後、そこで『島小研究報告』を作ることになりました。
群馬県島小学校は斎藤さんが校長をしていた学校です。
『島小研究報告』には、
斎藤校長を中心として、
島小の先生たちがいかに実践力を高めていったかの記録
が如実に記されています。
そのセットに「芽を吹く子ども」という記録映画
をビデオにして収録しました。
監督は新藤兼人さんです。
新藤さんとのご縁はこのとき出来ました。
『島小研究報告』の監修は、
当時宮城教育大学の教授をされていた横須賀薫先生。
横須賀先生は、
斎藤喜博と直に接していた教育学者で、
わたしが横須賀で教師をしていた頃、
勤めていた学校に講師としてお呼びしたこともありました。
「名前は横須賀ですが、出身は横浜です」
と先生が挨拶されたのをよく憶えています。
横須賀先生はその後、宮城教育大学の学長となり、
二〇〇六年に退任、
現在は十文字学園大学の学長をされています。
春風社でこの度『斎藤喜博研究の現在』という
大部の本を作ることになりました。
十名ほどの研究者による共著ですが、
横須賀先生が代表を務めておられます。
わたしが編集を担当することになりました。
また一つ、
お預かりしていたものをお返しする気分です。

写真は、なるちゃん提供。
なるちゃんのお姉さんが作った絵画のような茄子。

 源氏読み千年前の端居かな

スカッとした男がいない

 

 沈み浮く井戸で冷やせし西瓜かな

『五重塔』や『大菩薩峠』や『富士に立つ影』や『鬼平犯科帳』や、
古いところでは馬琴先生の『南総里見八犬伝』
が好きなわたしとしては、
『源氏物語』は面白くないことはないけれど、
今いち、よっしゃー!となりません。
それは、
男がぐじゅぐじゅくねくねめそめそたらたらと、
しつこいし言い訳じみているし、だらしがないから。
スカッと爽やかな男がいない。
まあ、千年前の男も今の男も、
そう変わらないといえばそれまでですが、
男ってどうしてこうダメなんでしょう。
自分にもある見たくない現実を、
これでもかというほど見せ付けられます。
現実てんこ盛り!
だからこそニュービーズのような男が見たくもなります。
馬琴先生が『源氏』に批判的なこともむべなるかな。
なのに、読んじゃう。
なんでか。
女のこころが分かるから、
ゴシップめいていて面白いから、
性愛描写が巧みだから、
いろんな場面に出てくる「あはれ」(ものすごく多い)に共感できるから、
男のダメさ加減をこき下ろしたいから、
苦の世界を嘗め尽くしたいから、
……。
いろいろあるでしょうけれど、
いずれにしても『源氏』は仏教に濃く彩られ情愛に充ちた、
ジーンとくる物の哀れの文学のようです。

 八月を眺め黙々宇治十帖