ありのまま

 

 八月や鯨の夢の続きをり

写真集『クジラ解体』の書評が読売新聞に掲載されました。
写真家の小関与四郎さんは、
九十九里浜に生まれ、育ち、
そこでずっと、
人間と人間を超えたものに照準を合わせ、
写真を撮り続けてきました。
「カメラは
ありのままを写しても
ありのままは写らない
ありのままの中から創るのだ
創らなければありのままは写らない
ありのままは、カメラが生きて、ありのままにならなければならない」
映画監督・新藤兼人さんが
写真集『九十九里浜』に寄せてくださった詩は、
まさに『クジラ解体』の心でもあると感じます。
小関さんがこれからどんな写真を撮り、
どんな言葉をつむぎ、
どんなありのままを創り見せてくれるのか、
楽しみです。

 目を瞑り暑さを忘る本の旅

実事

 

 喉鳴らしやがて息吐く麦酒かな

事実でなく実事。
「じつじ」と読むんでしょうか。
大野晋と丸谷才一の対談集『光る源氏の物語』に、
しょっちゅう出てきます。
たとえば、
「賢木」の巻の光源氏と六条御息所について、
丸谷 いうまでもないことですが、この夜、実事ありですね。
大野 実事ありでしょう。
丸谷 焼けぼっくいに火がついた。
    しかし、火はついたけど、やはり別れることにはなる。
    非常にややこしい男女関係ですね。
大野 そうですよ。
丸谷 この実事のありなしをいつもきちんと押さえていかないと、
    『源氏物語』は読めなくなります。
……てな具合。
もうお分かりだと思いますが、
実事とは、つまりアレのことです。
アレのことをアレと露骨に言わず、
実事と言うところが奥ゆかしい。
てゆうか、笑える。
だって大の男が二人して、
しかも一人は稀代の国語学者、
一人は小説家にして翻訳家の二人が、
ここは絶対実事ありでしょう、
いやいやそうとも言えない、なぜならば…、
なんてしかつめらしく言い合っていること自体おかしいでしょう。
でも、会話は至って真面目に進みます。
それがまたかえって笑いを誘う。
二人とも楽しんでやっているのがこちらに伝わってきて、
心地よい。
下巻もあるので、しばらく楽しめそうです。

写真は、まるちゃん提供。

・八月の夜を電車が裂きて去る

スッ、ツー、サッ

 

 宿題を終へて寂しい夏休み

いつも行っている床屋に電話したら、
夜まで予約でびっしりだというので、
仕方なく他の床屋をあたってみることにしました。
さて、どこにしようかと思案したところ、
保土ヶ谷橋交差点、
川辺酒店の二階にヘアーサロンがあったことを思い出しました。
出来て一年半か、
二年ぐらいになるのでしょうか。
「仕事の帰り、散髪してサッパリしませんか?」
路上に置かれた小さな看板に、
そんなキャッチコピーが、たしか書かれてありました。
カット1500円、だったような。
よし。
あそこに行ってみよう!
ぶり返した暑さの中、
交差点を渡ってすぐのビルに入り、
薄暗い階段を上って左手のドアを開けると、
男性三人がソファーに座り、
漫画や雑誌に目を落としています。
ここは予約制ではないのでしょう。
マスクをはめた床屋のご主人が、
鋏を縦にして客の後頭部の髪を刈り揃えていきます。
二、三歩、スッと歩いて、
ツーとワゴンに体を寄せ、必要な道具をサッと取ります。
スッ、で、ツー、で、サッ。
動きに無駄がありません。
ほれぼれします。
わたしはしばらく立ったまま、
映画のシーンを見るように、見とれていました。
客が話せば別ですが、
そうでない限り、無駄口もききません。
読んでみたいと思っていた『バガボンド』も揃っています。
三巻目、武蔵(たけぞう)が京都に上り、
吉岡道場に入って試合を申し込んだところで、
わたしの番になりました。
「いちばん短い坊主刈りにしてください」
「はい。わかりました」
わたしは皮膚が弱いので、
床屋に行っても顔を剃らせないのですが、
この人ならひょっとしてと思い、されるままになっていました。
蒸しタオルをどかし、いよいよ剃り始めたのですが、
剃刀が髭にあたっているのかいないのか、
その感覚がないぐらい、
実に見事な手際でした。恐れ入りました。
鋏を持った武蔵か、君は!?
なんてことを…。
仕事帰りにでも、また寄ってみようと思います。

写真は、なるちゃん提供の「月下美人」

 鬼灯を母は上手に鳴らしたり

無垢の博物館

 

 八月や残るページを数へをり

トルコ初のノーベル文学賞受賞者オルハン・パムク
(名前からなぜか重量挙げの選手を想像)
の受賞後第一作『無垢の博物館』を読みました。
上下二巻、長かった~。
朝日新聞に掲載された書評を読み、
面白そうだったので買いましたが、
実際に読んでみると、
それほどとも思いませんでした。
面白いのは初めと終り、
長い中ほどがだらだらだらだらしていて、
こんちくしょうものです。
金玉がばんばんに腫れている若いときに読んだら、
ひょっとして感情移入でき、
これぞ小説!
なんてことになったのかもしれませんが、
五十の坂を過ぎた今読むと、
馬鹿言ってんじゃねーよ、
ただの自己中男の妄想話じゃねーかとしか思えません。
妄想話だったら妄想のままに突っ走ってほしかった。
なんだかアイディアをこねくり回して、
普遍性を持たせていこうとする意匠が見えていやらしい。
わたしはこの小説、×でした。

 きざはしを上り上りて虫の声

「読みたい」が詰まった本

 

 ぶりかえす暑さに空を睨みをり

学生のときに買って、
ずっと読まずに持っていたのですが、
病気をして本が読めなくなり、
少しずつ回復した後も、
もう読むこともないだろうと思い、売ってしまいました。
ところが、
おかげさまで元気になり、
『源氏物語』を二十数年ぶりに読み直し、
時間感覚を意識したせいか、
今度は空間感覚とでも言ったらいいのか、
世界の広さを教えてくれそうな本を読みたくなりました。
会社のテラチーから借りた
クラフトエヴィング商會の『おかしな本棚』に、
本棚には、
本を読もうと思ったときの楽しさが並んでいて、
本棚を眺めれば、
その時々の「読みたい」が鮮やかによみがえる、
だから、読まなくてもいいんだというようなことが書いてあり、
その通りだと思いました。
『野生の思考』は、わたしにとりまして、
まさにそのような本で、
何が書かれていても、たとえ書かれていなくても、
これを読もうと思ったときの「読みたい」が詰まっています。
「読みたい」気持ちに別れを告げ、
今度こそ本当に読もうと思います。
読まないかもしれないけど。
次号「春風目録新聞」の特集は、
「今、読みなおす本」
精神科医の中井久夫さんから素敵なお原稿を頂戴しました。

 静けさや階段尽きて汗の道

処と處

 

 空中に止まりて去りし蜻蛉かな

暑さがやむことを処暑(しょしょ)というそうです。
知りませんでした。
「二十四気の一。立秋の次、白露の前にくる時季。八月二十三日ごろ。」
わたしの持っている『角川漢和中辞典』の記載。
「処」の字義の六番目に「おさめる」とありますから、
この意味で使っているのでしょう。
たしかに、
ちょっと前までの狂った暑さに比べれば、
この頃は少し収まり、
朝夕、だんだんと冷気が加わってくるようです。
処暑。覚えました。
ところでこの「処」ですが、
角川さんに「几に腰掛けている足(夂)のさまをしめす」とあります。
また、「處はそれに音符虎を加えたもの」とも。
ところが、白川静さんの『字統』で「処」を引くと、
「旧字は處に作り、虎と几とに従う。虎形のものが几(腰かけ)にかけている形。
虎はおそらく虎皮を被って、戯劇などの神事的な所作を演ずるものであろう」
とあり、
角川さんと共通の〔説文〕を紹介しつつ、
金文の字形はすべて處に作り、處が正形であると。
以上、専門的な両者の説明を、
単純なわたしの頭でバッサリやると、
角川さんが「処」が主で「處」が従であるとするのに対し、
白川さんは、いやいや、「處」が主で「処」が従であるよと。
ふむ。なるほど。
詳しいことはともかく、字って面白い!

写真は、ひかりちゃん提供。

 鬼やんま出でて話を忘れけり

秋朱之介

 

 晴れ晴れと何を映して鰯雲

恩を売るわけではないけれど、
こちらのしたことに対して何の応答もなく、
あたりまえとでも思っているのかと訝しく感じた日は、
疲れる。
S氏からお借りした秋朱之介の『書物游記』を読み始める。
特殊な限定出版の装丁(秋氏ご本人は「装釘」を用いている)
を生業とした出版人(秋氏ご本人は「出版家」と称している)
であったらしく、
一文一文に本づくりにかける氏の気迫が篭っている。
「私が今ほしいものは金である。資本である。
それさえあれば、活字を買える。紙を買える。羊皮紙を仕入れられる。
私は一生に一度は羊皮紙の本を作りたいと思っている。」
疲れが飛んだ。

 此処其処と蝉の死骸の黙しけり